骰子の眼

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2018-07-06 12:45


女力士×アナキストによる"骨太"青春エンターテインメント『菊とギロチン』

「自由なき社会は戦争に向かう雰囲気に似ている」瀬々監督&坂口プロデューサー語る
女力士×アナキストによる"骨太"青春エンターテインメント『菊とギロチン』
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

『64 ロクヨン』の瀬々敬久監督が、『ヘヴンズ ストーリー』以来8年ぶりとなる自身のオリジナル企画となる映画『菊とギロチン』が7月8日(土)より公開。webDICEでは、構想30年の企画を実現させた瀬々監督と、坂口一直プロデューサーのインタビューを掲載する。

夫の暴力に耐えかねて家を飛び出してきた主人公の花菊は、強くなりたいと女相撲一座に加わることになり、そこで格差のない平等な社会を求め活動するアナキスト・グループ“ギロチン社”のメンバーと出会う。関東大震災直後の混乱の時代を舞台に、弾圧を受けながらも自由を求めて闘ったふたつのグループの若者たちを描く群像劇だ。木竜麻生、東出昌大、寛一郎、韓英恵ら若手実力派俳優、そして空族の相澤虎之助が共同脚本に加わり、ハラスメントや差別、閉塞感など様々な点で現代と繋がる大正末期の若者のたちの生き様を鮮烈に描いている。

「『菊とギロチン』は「自由」と「自主自立」といったテーマを描こうとした映画です。何年も実行するまでに掛かりましたが、今こそ、そういうことが必要だと思ったのが、実現に向けての大きな動機になっています。そして、撮影現場もそういう雰囲気の中で出来たと思っています。世界や社会や自分でも何でもいいのですが、何かを変えたい。そう思う若い人たちを描いた青春映画だと思います。大正時代の話ですが、今に通じる映画です」(瀬々敬久監督)

「『ヘヴンズ ストーリー』の上映中に2011年の東日本大震災が起こりました。震災から数年が経ち、妙な締め付けが強くなり、自由がなくなっていく社会の中で、これは今の社会の空気が関東大震災後の戦争へ向かう雰囲気に似ているのではないか、次回作はこれではないのか。そういう思いが、僕たちの間で募ってきました」(坂口一直)


「何かを変えたい。そう思う若い人たちを描いた」
瀬々敬久監督 インタビュー

──『菊とギロチン』はどのような構想から始まったのですか?

この企画を考え始めたのは20歳代の頃です。東京で暮らし始め ピンク映画の助監督をやりだした26、7歳の頃、京都に住んでた時代からの自主映画の友人、松岡邦彦(現監督:映画『いやらしい前戯 すごく感じる』(94)など)が遊びに来て、雑誌『BRUTUS』のコピーを渡してくれたのがきっかけでした。詩人の正津勉が大正時代の「ギロチン社」の中浜哲について書いた記事で、ギロチン社の盟友、古田大次郎が死刑に処された折に、同じく獄にいた中浜が送った句がそこにありました。
「菊一輪 ギロチンの上に微笑みし 黒き香りを遥かに偲ぶ」この句がショックでした。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』瀬々敬久監督

互いに死刑に処せられる2人の友情に心揺さぶられたのかも知れません。いつか「ギロチン社」の映画を作りたい、そう思い始めました。そのころ、僕はピンク映画の助監督でした。世の中を変えたい、そう思いながらも、やってることは企業を脅して、その日暮らしの金を略奪することに明け暮れる毎日。そんなギロチン社の姿に、明けても暮れても助監督生活の自分を投影していたのかもしれません。
それまでも「ギロチン社」をモチーフにしたと思える映画は数多くありました。有名なところでは、 神代辰巳監督の『宵町草』(74)。監督デビュー前の長谷川和彦さんが脚本を書いており、ギロチン社をモデルにしたと思われるアナキストを高岡健二が演じています。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』瀬々敬久監督

『日本暗殺秘録』中島貞夫監督(69)ではギロチン社が起こした唯一の殺人事件、小坂事件が描かれており高橋長英が古田大次郎を演じています。『大虐殺』小森白監督(59)では天地茂が古田大次郎を。そして、ずっとギロチン社の映画を作りたかった鈴木清順監督の志を引き継いだ『シュトルム・ウント・ドランクッ』山田勇男監督(2014)。
それらの映画を見ても「ギロチン社」そのものを描くのは非常に難しいなと思いました。どこか地に足がついてない高等遊民ぽさがあり、生き方にリアリティが無さすぎるからです。ですが映画化したいという欲望だけは、ピンク映画を監督するようになってからも持ち続けて、図書館で調べたりして資料を探しました。でも意外と少ないんですね。古田大次郎の回顧録などの他は、当時の事件の詳細を書かれている本はあまりない。それでも探して、そんなことを続けてました。

それから90年代に入り井田真木子さんの女子プロレスについてのルポ『プロレス少女伝説』という本に出会いました。ここに女子プロの元祖として興行女相撲のことが書かれていたんです。大正時代の農村の婦女子たちは、女工になるか末は酌婦。女相撲を見た彼女たちは、「女もこんなに強くなれるんだ」と、家出同然で女相撲を追いかけ力士となった。
こんな文章でした。読んだ瞬間、女相撲とギロチン社を一緒に描くことで地に足の着いた、よりよく自由にいきたいという若者たちを描けると思い、速攻、企画を作りました。『菊とギロチン』の誕生です。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

──坂口プロデューサーと制作を進めることになった経緯は?

95年のロッテルダム映画祭の企画マーケットに出したのは坂口から頼まれたからです。彼は本職のプロデューサーというわけではなく映写技師派遣の会社をやりながら、当時の僕らのピンク映画を海外映画祭に出したり日本の単館系映画館で上映したりをやってくれてた。それで企画マーケットに出せたら彼の分のプロデューサー渡航費が出るからと。最初は、その程度の理由でした。坂口とは人を介して上京したころから知ってたんですが、彼は学生の頃、法政大の学館ホールで自主企画をやっていたりしていたので、京大の西部講堂で同じようなことをやってた自分とは何となく理解しやすいところもあって『ヘヴンズ ストーリー』のプロデュースを頼んだんですね。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

で、今回も一緒にやった訳ですが、テーマ的にはアナキズム的な志向を坂口は元来持ってる男ですから、この企画に『ヘヴンズ』よりノッていたと思います。資金集めの細かい事務仕事的なことからやってくれました。出資者の何人かは僕の知り合いだったりしたので、そういう人たちに一緒に会いに行ったりということから始まって、後は予算の割り振りですね。ただ基本、どんぶり勘定的な見切り発車だったので、正直クランクイン前には「どうするんだ、これでやれるのか。やるのか、やらないのか」というような場面はありました。いざ撮影が始まれば、スタッフは僕がいつもお願いしてる人たちなので、そんな大きな問題は起こらないですし、キャスティングも懇意な担当スタッフが入っていたので問題はなかったです。今回は役者の熱気みたいなものが凄かったですから、そういうところでも現場に入ってしまえば後は何とかというところでした。ただ、撮影後も仕上げの資金をどうするかという問題が出てくるのですが、そこでも時間が掛かりました。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

──ようやく完成した映画を、どのように観客に届けたいですか?

『菊とギロチン』は「自由」と「自主自立」といったテーマを描こうとした映画です。何年も実行するまでに掛かりましたが、今こそ、そういうことが必要だと思ったのが、実現に向けての大きな動機になっています。そして、撮影現場もそういう雰囲気の中で出来たと思っています。
これを実現するためには、様々な人の協力があってからこそだと思ってます。そういう方たちには本当に感謝してもしきれません。
『菊とギロチン』は、世界や社会や自分でも何でもいいのですが、何かを変えたい。そう思う若い人たちを描いた青春映画だと思います。骨太エンターテインメントという言葉が、ぴたりとハマる気もします。大正時代の話ですが、今に通じる映画です。若い人から老年を迎える方まで、今を生きてるあらゆる人たちに見てほしい。それが正直な気持ちですね。




 

「誰にも縛られず自由に作った」
坂口一直プロデューサー インタビュー

──どのような経緯で『菊とギロチン』と出会ったのでしょうか?

瀬々監督と初めて会ったのは、1990年前後。共通の知人が何人かいたので、それでなんとなく知り合った気がします。当時、彼はすでに2,3本のピンク映画を監督していた頃で、僕はスタンス・カンパニーという出張映写をメインにした会社を興して数年経った頃でした。配給に手を出したり、ドキュメンタリー映画(「蜃気楼劇場」杉本信昭監督)の製作にも関わったりしていた頃です。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』坂口一直プロデューサー

その後、瀬々を含めたピンク四天王が、話題になってきた頃、ロッテルダム映画祭で彼らのピンク映画を含めた日本の成人映画特集を行うというときに出品のお手伝いをしました。映画祭には「シネマート」という企画マーケットがあったのですが、エントリーするとプロデューサーの渡航費を映画祭側が出してくれるという特典があり、瀬々に企画を出させたところ、持ってきたのが『菊とギロチン』でした。初期の瀬々作品は、実際の事件や実在の人物を時代や場所を超えて混在させフィクション化するということをよくやっていました。「グリコ森永事件」「円谷幸吉」「山口二矢」「東アジア反日武装戦線」「秩父事件」等々。僕はそのセンスにいつも驚き感銘を受けていました。『菊とギロチン』は、その路線の真骨頂であり、企画書や台本を読んで興奮した覚えがあります。タイトルも気に入りました。ぜひともこれは映画化すべきだと。ただ、これをちゃんと作るとなるとそれなりにお金がかかるだろうなとは思いました。「シネマート」では、何人かの製作関係者?に会いましたが、交渉のノウハウも知らず、そもそも渡航費が出たことで満足していたので、商談成立などするはずがなかったのですが、理由はどうあれ、こうして『菊とギロチン』は企画として1995年に世界に発表されています。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

その後、映画化したいとは思いつつも年月は過ぎていきました。5年に一回くらい「これやろうよ」と盛り上がることもあったのですが、やはり資金調達の能力もなく、立ち消えになっていきました。美術の磯見さんに相談したのも、そんな流れの中の15年ほど前だったかと思います。そうこうしているうちに瀬々は、自主企画として『ヘヴンズ ストーリー』を立ち上げました。この作品は、約1年をかけて四季を撮るという構想で、資金もない中、本業のプロダクションにはなかなか頼めないということで、僕が引き受けることになったわけですが、案の定、予算はオーバー、回収のあてがないなど、プロデューサー的にはかなり問題ありつつも、ともかく、作品は完成し公開することはできました。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

──完成へ至る道程は険しかったですか?

『ヘヴンズ ストーリー』の上映中に2011年の東日本大震災が起こりました。震災から数年が経ち、妙な締め付けが強くなり、自由がなくなっていく社会の中で、これは今の社会の空気が関東大震災後の戦争へ向かう雰囲気に似ているのではないか、次回作はこれではないのか。そういう思いが、僕たちの間で募ってきました。
瀬々は、台本を相澤虎之助と共同して、いまの時代に突きつけるものを仕上げてきました。
でもそこで重要なのはやはり製作資金です。
『ヘヴンズ ストーリー』の時はまだDVDの会社や色々がギリギリ元気のあった時代でした。時代は変わり配信の世界になり、ますます弱小の映像関係の会社はつらい時代になっています。また『菊とギロチン』には、大きな会社が出資するには、リスクとなりかねない内容も孕んでいます。悶々としていた頃、京大西部講堂の運営に携わっている田所大輔が、「この映画にお金を出したい人は沢山いるはずです」とハッパをかけてきました。確かにこのまま悶々としていても、いつもの木阿弥です。よって『菊とギロチン』は、瀬々の自己資金をベースに、賛同してもらえる個人や会社からの出資、カンパというかたちで進めていこうと決めました。もちろん、それで成立するかは、まったくの未知数ではあったわけですが。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

2015年末より資金提供者を募り、2016年秋の撮影前には、ギリギリ撮影を終えるくらいの目途がたちました。しかし、撮影終了時点で仕上げの資金は皆無に近い状態でした。2016年末から、仕上げ資金の募集も開始。瀬々は、『菊とギロチン』仕上げまでに、3本の商業映画を撮りあげました。最終的には、企画に賛同していただいた145の個人や会社による出資やカンパとスタッフやキャストの皆さんの有償無償な協力を得て、2017年末、遂に完成することができました。
たぶん、この映画の持っていた熱みたいなものが伝わったんだと思います。
大手映画会社に頼らず、自己資金を元手に自由に制作するのがこの映画にふさわしいと考え実行できたのも幸いでした。

映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎
映画『菊とギロチン』 ©2018 「菊とギロチン」合同製作舎

──公開へ向けての準備は順調でしたか?

完成はしたものの、宣伝資金がないまま、これまた見切り発車で公開へ向けてスタートしました。公開前日まで、クラウドヴァンディングという形でご協力を仰いでいます。まったくもって、こんなハラハラした映画の作り方は推奨できるものではありません。ただ、資金提供にしろ、スタッフにしろ、キャストにしろ、関わったみんなが、誰にも縛られず自由に作ったこの映画の熱を共有し、製作者の一員としてドキドキしながら公開に向けて盛り上げることを楽しんでくれたら嬉しいです。

(オフィシャル・インタビューより)



瀬々敬久(ぜぜたかひさ)

1960年、大分県出身。京都大学哲学科在籍中より自主映画を製作。卒業後、「獅子プロダクション」に所属、助監督に携わる。1989年、ピンク映画『課外授業 暴行』で監督デビュー。1997年『KOKKURI こっくりさん』で、一般映画デビュー。以後、一般映画、ピンク映画、テレビドキュメンタリーなど、ジャンルを問わず縦横無尽に活躍。商業的な作品を作り続ける一方で、4時間38分の超長編映画『ヘヴンズ ストーリー』(10)はインディーズ体勢で製作、第61回ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞とNETPAC賞(最優秀アジア映画賞)の二冠を獲得。日本国内でも芸術選奨文部科学大臣賞映画部門を受賞した。『64 -ロクヨン- 前編』(16)では第40回日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞。その後も、『最低。』、『8年越しの花嫁 奇跡の実話』(共に17)、『友罪』(18)など話題作を次々に世に送り出している。


坂口一直(さかぐちかずなお)

1959年、長野県出身。大学時代に自主映画製作や自主上映に携わる。1986年、有限会社スタンス・カンパニーを設立。出張映写や字幕制作を主な業務とする傍ら映画の製作も手がける。主なプロデュース作品に『蜃気楼劇場」(93/杉本信昭監督)、『JUNK FOOD』(98/山本政志監督)、『W/O』(01/長谷井宏紀監督)、『ヘヴンズ ストーリー』(10/瀬々敬久監督)、『石巻市立湊小学校避難所』(12/藤川佳三監督)、『眼球の夢』(16/佐藤寿保監督)などがある。




映画『菊とギロチン』
7月7日(土)よりテアトル新宿ほか全国順次公開

監督:瀬々敬久
プロデューサー:坂口一直、石毛栄典、浅野博貴、藤川佳三
脚本:相澤虎之助・瀬々敬久
出演:木竜麻生、東出昌大、寛 一 郎、韓英恵、渋川清彦、山中崇、井浦新、
大西信満、嘉門洋子、大西礼芳、山田真歩、嶋田久作、菅田俊、宇野祥平、嶺豪一、篠原篤、川瀬陽太
ナレーション:永瀬正敏
配給:トランスフォーマー
189分

公式サイト


▼映画『菊とギロチン』予告編

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