骰子の眼

art

京都府 京都市

2019-07-11 16:05


とてつもなく複雑な心の内奥に触れる―ダムタイプ古橋悌二が語るアートの役割

'95年のインタビュー再掲「マイノリティの擁護という図式を乗り越えたものを作りたかった」
とてつもなく複雑な心の内奥に触れる―ダムタイプ古橋悌二が語るアートの役割
Teiji Furuhashi portrait (photo by Tony Fong)

京都を拠点に世界のアートシーンに大きな影響を与えた、マルチメディア・アーティスト集団「ダムタイプ」の中心的メンバーで、1995年にHIV感染による敗血症のため死去した古橋悌二。彼の生誕記念日である7月13日(土)に京都メトロにてパーティ『"LOVERS 59" Teiji Lovers Birthday Bash』が開催される。

webDICEでは、1995年2月にアップリンクが発行した雑誌『骰子/DICE』に掲載のインタビューを再掲する。24年前に行ったこのインタビューの後、95年10月29日に古橋さんは亡くなった。アップリンク的には、前年の94年2月にデレク・ジャーマンがエイズで亡くなっている。当時、エイズは不治の病だった。
このインタビューは、改めて今読み返しても、1ミリも古さを感じることなく、アートと表現と社会についての本質を語り合ったと思うのでダムタイプ、そして古橋悌二をリアルタイムで知らない世代の読者にぜひ読んで欲しいと思う。(浅井隆)



DICE
このインタビューが掲載された『骰子/DICE』8号「特集:サウンド&ヴィジュアル・パフォーマンス」より

──「ダムタイプ」(注1)って「おしの劇団」という意味でいいの?

まあ、「dumb」っていったら「おし」の意味もあるけど、よく使われるのは「ばか」とか「ぼけ」とか。なんか失敗したときに独りで「dumb」って言うんですよ。

──いままでの公演はあんまりしゃべってないですよね。で、今回の『S/N』(注2)では言葉が多い。それは突然しゃべり出したんですか?

これまでもしゃべってたつもりなんです、言葉以外の方法でね。もともとヴィジュアルで美的感覚に訴えていって、こう人の心にタッチしていくっていうやり方が好きで。でも「あ、きれいなもん見た」っていう感じで終わっちゃうのもなんか80年代的というか、のんきというか、飽きたというか。

──『S/N』のプレミア公演の時、浅田彰さんが公演を観終った後、一気に22分30秒テープに感想を吹き込んで古橋さんに送られたそうですが、きれいなものだけだと人はなかなか反応しないけれど、言葉を発するとこんなにわあーっと人が反応するのかって驚いてましたよね。

芸術家の表現と芸術家の人生っていうのは別のものだと考えられていたのを、いや同じなんですって言った時に、作品批評においてとてつもない困難が生じるんちゃうかなあ。芸術家の人生も評論家の人生もすべてまな板の上にのっちゃって、さあ時代という名の料理をしましょって感じ? それってすごく恥ずかしいし、煩わしい。でもね、それは自分の人生を引き合いに出してしまうほど芸術を愛しているっていう意思表明なのかもって思うし、なかなか美しいでしょ。

──だいたい80年代的な、あるいは70年代的な演劇の場合、台詞はその作者の言いたいことを詩的、文学的な表現でメタファーとして表現することが多かった。それを演劇評論家達が、一生懸命この白い壁の意味は?とかを解釈し、批評し、演劇の価値を高めていくということがあった。

そういうゲームだから。

──でも、ほんとにアーティストなり劇作家なり演出家なりに言いたいことがあるんだったら、ストレートにその劇のテーマを普通の言葉で語ればいいのを、わざと比喩的言語、イメージで表現し、それをさらに評論家が作者は何が言いたかったのかと解釈する。そして時には作者が考えてなかったようなことまで評論家が解釈してくれてる。なんかまどろっこしいなと思う。言葉としては哲学の方が一生懸命その具体的な論理を伝えようとして、人の心に届く場合もあると思うのに、それでは表現としてストレートすぎるので、気恥ずかしくて詩的、文学的になる。

解釈の作業が表現者の仕事になっちゃう。そこから生まれるものは多くの場合、歴史への悪戯にしかならない。あるいは、解釈にオリジナリティを求めた結果、オカルトになっちゃうとか。

──だから解釈は知識があればいくらでもできるんだけど、ダムタイプの公演を見てると『S/N』のテーマが、解釈の必要のない言葉でスライドで映し出される。〈LOVE〉とか〈DEATH〉とか。それにおしゃべりしてるシーンにはなんの文学的メタファーもない。普通の言葉で伝わる。

もう恥ずかしいほど普通の言葉。

──解釈の必要が全くないところがすばらしい。解釈させるアーティストなんて二流だと思います(笑)。

どういうつもりで、ああいうどうしようもない会話のシーンがあるかというと、アートの現場では直接話されなかったこと、話しようもなかったこと、例えば本当に心が通じ合える友人と電話でひそひそしゃべってることとか独り言とかを、いわゆるアーティストと観客という安定した関係の中にポーンと放り込んでみたかったんです。アーティストはどこまで自由かっていうのを確認したかった。あと公には無言に保留にされている事柄を、当事者達のひそひそ超えをのぞき見、盗み聞きしてしまったような感じ。でも、ああいう個々人に直接コミットしてくるような場面はうっとおしいって言う人もいます。もっと完成された、かっこいい場面だけを見せてって。

──いやあ、きれいなシーンだけだとスライドとビデオと照明と音響の、なんかもうショーみたいな感じで完璧にプログラムされてて、ビシッビシッと決まってて、ある種のアート・ファシズムに支配されている、何かいい意味での快楽がありますよね。

うふふっ。

──もうなんか、たぶん北朝鮮の前衛劇団みたいな感じ(笑)。

へえ? ようわからへんけど(笑)。

──いや、ぼくも観たことないけど。

はあ、まあそういうの多いですから。

──観客として完璧なショーに服従したいという気持ちがあるんだけど。そこでそこに割って入るように、リアリティのある会話が入ってくる。そこで、これが驚きだったんですが、今までコンピュータ制御のショーの一部としてしか見ていなかった、スライドのすごく単純な言葉や、二人が抱き合っているというあまりにもシンプルなビデオ・プロジェクションのイメージが、嘘のサインに見えなくなる。そこにリアリティが感じられる。すごく自分のほうに伝わってきました。

うん、まあ何ていうか、たとえば西新宿はああいう立派な建築物ばっかりで成り立っているけども、よく見たら下のほうに汚いダンボールでおじさんが寝ていたりすること自体が、街の深みをつくっているようなものだと思うんですけど。

──で、ダムタイプはその新宿の上の方だけを、ずっと公演としてはやってきたようなイメージがるんですけど。

あっ、そう? まあ東京ではね、イメージの街だから。地元では結構べたでやってるからばれるっていうか。実はそのダンボールのおじさんがダムタイプやって。ホホホ。もともとハズすの好きやし。

──なるほどね(笑)。

やっぱりあのハズしのノリって、関西のノリやと思う。東京の人はハズされると怒るんですよ。

──いやあ、僕も大阪なんでよくわかるんですけど。やっぱりハズして最後に盛り上げて終わるっていうのがね。

そいういう意味では時々お客さんから、こういうシリアスな題材を笑いに持っていってもいいのかと言われることもあります。一体、誰に心配しているんやろ。

──活動の拠点は京都ですよね。

ええ、京都です。

──京都は大阪とは違うスカした部分がありますよね。やっぱりその辺ダムタイプも「ああ、これはやっぱり大阪とは違うな」って(笑)。

でもなんやろ、きっと京都とニューヨークのミックスなんだなぁって。ああいうどうしようもない下品な部分は、僕、ニューヨークで培ってきたから(笑)(注3)

Dumb Type performance S/N  (photo by Yoko Takatani)
Dumb Type performance S/N (photo by Yoko Takatani)



──最初のシーンで、古橋さん自身がHIV+であり、ゲイであることをステージでカミングアウトしてるわけじゃない。あれはやっぱりシナリオだと思ってる人が多いのかしら?

多いのかな? あまり直接聞かれないしわからない。診断書持ち歩いてる訳じゃないしね。

──演劇っていうのが舞台で行われている虚構だと思ってて、アーティストのナマの生きてる行為とかが結びつくという概念がないみたいですよね、大半の人は。

そうなんだって宣伝しないとね。でもそのこと自体が僕の第一のアイデンティティじゃないから、あまりそういう必要性は感じない。プロモーションの材料にはしたくないし、第一、今どき古いしね。

──古橋さんがさらけ出しているにも関わらず、(観客は)やっぱりアート作品というか、舞台を自分と遠い所に置いてこうとしていますよね。その辺になにかしら苛立ちはありますか?

いや、別に苛立ちはないんですけれども。そういう人達とは一生直接おつきあいがないだろうし(笑)、本当だからといっていきなり暗くなられても困るし、こっちが逆に慰めたりね。

──海外ではどうですか? あの場面は英語で演るんですか?

ええ、英語で演ります。

──日本と同じでフィクションだと思ってる人が多いんですか?

いや、海外の方が自然に受けとめられていると思う。表現者と観客が生きた関係を持ってるっていうか。後で真剣な議論に発展しやすい。




──ヘテロセクシュアルも一つのセクシュアリティで、それを、自分がなぜヘテロなのかと認識させることを観客に突きつけていますよね。

例えば、ホモセクシュアルとかレズビアンとかは、どうして自分はこういうセクシュアリティを持っているのか、ずっと考えてきてるわけですよ。で、悩みながら生きてきたけど、ヘテロセクシュアルの人は悩んだことがないから、とまどいみたいなものは絶対最初にあると思う。でも、それを考えていくうちに「なんや結局一緒やん」っていう段階まで至った時に得るものが、大事だと思ってます。だからゲイ、ヘテロって完全に分けて、なんかこう喧嘩みたいなことをして、その立場が逆転したりするっていうようなことは、よくないと。いわゆるアメリカのPC(ポリティカリー・コレクト)っていう動きがそれに近いんだと思うけど、マイノリティがマジョリティを、逆に今まで抑圧されてきた分を憂さ晴らしのように抑圧し返すみたいな関係になると、立場が逆転するだけで、結局競争という原理には変わりがなくて、どっちが上かどっちがえらいか、どっちが人生について長けているかとか。初期のフェミニズムもそういう部分はありましたけどね。女の方が強いとか。そういう意味ではアフターPCを考えている人が、世界中に増えてきてると思う。

──というのは?

『S/N』にしても、PC族は、まあマイノリティがやってるんだから大事に扱ってあげないといけない、という態度が根底にあったり。「HIV+、かわいそ」とか「ホモセクシュアル、かわいそ」とか、身障者がどうとか黒人がどうとか。で、彼らが言うんだから仕方ないね、みたいな「優しい」人達。そういう自分の良心の呵責をすっきりさせるためにマイノリティを擁護する、という近年の図式を一歩踏み越えたものを作りたかった。

──具体的に何か、そういう人達からのリアクションってあるんですか?

結構苛立ったみたい。

──どういうところで苛立つんですか? そういう人達は。

うーん、例えば、エイズとかゲイの問題を使ったメジャー作品、映画で言えば『フィラデルフィア』とか、舞台では『エンジェルス・イン・アメリカ』とかはPC族にも受け入れられやすい。なぜかというと、〈悲劇〉という記号の中におさめることが簡単だから。もちろん最後は曇りのない感動で終わるんだけど、結局〈悲劇〉の渦中にある人は死ぬ。〈死〉をもって救済され、人々に感動を与える。ゲイでエイズなんだけど死ぬことで許してやろうみたいな構図ができていて、そこに感動する自分を見出して、自分の人間性もまだまだ捨てたもんじゃないなと感じ入ったりして。これはとっても意地悪な見解かもしれないけれど、でもね、当事者達にとって〈悲劇〉の記号にされることほど恐ろしいことはない。自分の人生は人を泣かせるためにあるのかってね。
『S/N』にしても、北米でも大きなスポンサーを抱えているような名のある劇場とかは「エイズを扱っている」イコール「真面目、タイムリー、良いことだ」って口では言うけど、実際の公演を見た後では「作品としては素晴らしいが、ちょっとテーマに突っ込みすぎでスポンサーの神経に障る」からといって、この秋の公演をキャンセルしてきたりとかありますよ。「僕は好きやけど、世間は……」という態度ね。そういうことを言ってくるのはどの国でもなぜか男性のディレクター、キュレーターなのは、どういう偶然の一致なんでしょうね。そりゃアート経済を仕切っている人からしたら、人生の価値観を根底から揺さぶられることほど、まずいものはないですよ。ある安全なラインを保ちながら、その中である程度過激なものを見せてほしい人達が、世界のアート・シーンと呼ばれるものを動かしているんです。それがメイプルソープの写真でも話題になったセンサーシップ――表現の検閲の問題ですよね。

──例えばどういうところが? 『S/N』でそんなセンサーシップがあるの?

最後のシーンとか結構言われます。

──女性のあそこから旗が出てきたらあかんと(笑)。

メイプルソープが子供の裸を見せたらあかんのと同じように、いろんなタブーがあって、宗教の問題もありますから。HIV+の性生活を当たり前のように肯定的に表現している、とか。実際に怒ったスポンサーもいるしね。HIV+は、放っといたらやっぱりセックスしてウイルスを蔓延さすから隔離せないかん――という発想は、世界中まだどこにでもあります。口に出して言う人は減ったけどね。これもPCの一つになってるし。日本の公演なんかわりと静まり返っていて、怒ってくる人もいないし直接の反応があまりない。そういう意味ではちょっと海外と様子が違う。空振りしてるんやろか、と時々不安になったり。とにかく、表現の価値を仕切るのがスポンサーで、プロデューサーやキュレーターが自分の組織の存続のために自己検閲するというセルフ・センサーシップの問題は、誰が、何が、芸術の価値を仕切るのかという根本的な問題として、とても大きいですよね。

──それは、お金を出す人でしょうね。

彼らの目にかなう表現って何でしょうね。表現の自由は人間の自由に関わることですよね。自分の人生の意味をそこに重ね合わせて見出してくれるプロデューサー達は、何があっても『S/N』を自分の街で上映したいと必死になってくれて、やってて良かったと思いますね。




──公演を作るプロセスでそれぞれのセクシュアリティのアイデンティティが問われたと思いますが、メンバーでHIV+の人っていうのは古橋さんだけなんですか?

なのかな?

──セクシュアリティの問題は、話していけばヘテロも一つのセクシュアリティだという認識になりますよね。HIVに関しては、大半の人がネガティヴのアイデンティティを認識していると思うんだけど、作品を作っていく上でその辺はメンバーとどう話をされましたか?

ネガティヴのアイデンティティを持つって、かなり大変なことですよね。例えば「これから一生、今のパートナーとしかセックスしないし、そのパートナーも自分としかセックスしないというのを続けることを決定している」って意味かな。あと「一生セイフセックスしかない」とか。とりあえず今はネガティヴだけど、将来ポジティヴになり得る余地を人生に残してる人にとっては、ネガティヴのアイデンティティなんか持てませんよね。

──うん、持てないね。

僕が知ってる限り、例えばアメリカのゲイ・コミュニティでは、実際ほとんどの人が自分はポジティヴやろなと思うようにしてる、という姿勢がみえる。さっき言ったようなネガティヴのアイデンティティにこだわって人生を決定している人は別だけど、そうじゃない限りはある程度「自分はポジティヴかもね」とでも思っておかないと、セイフセックスを怠ったりとか、新しい恋の度に極度にナーヴァスになったりとか、弊害が多いんですよね。1ヵ月に一度は検査に行っているようなパラノイアな人もいるけど、そこまでしてネガティヴのアイデンティティを持たなくてもいいやん、っていう人が増えてきてる。これって人間の意識の進化というやつかなとか思って、僕は大変感慨深く見つめておりますが。昔は「自分はポジティヴかもしれん」て思うような発想はなかったと思う。みんな「とんでもない」とか「自分だけは違う」と思ってて。それがこんなに増えたんです。

Dumb Type performance S/N  (photo by Kazuo Fukunaga)
Dumb Type performance S/N (photo by Kazuo Fukunaga)



──僕は、アートというのは人の心なり考え方なりにダイレクトに入っていくもんだし、それが見た人の生き方や社会のシステムを変えていく力を秘めてると思うんです。そういう意味で、今回のダムタイプはすごくもう泣きたくなるくらい美しいし、パワーを感じた。イメージ、音楽、言葉、トータルでのアートのちからっていうのをすごく感じた。

アートも所詮アート、とか行って開き直ってる人もいるけど、僕はアートっていうものをこってり信じてる。そんなの恥ずかしいというアーティストもいるし、逆にアクティヴィストからは「なまぬるい、もっとメッセージを明確に、啓蒙的にしないと直接行動に結びつかない」って言われたりとか。それだけだとやっぱり、シンポジウムやデモ、プロパガンダのほうが有効なんですよね。それも重要だと思うけど、それだけでは伝わらない。従来のコミュニケーションの方法では伝わりにくいとてつもなく複雑な心の内奥に、わざわざ入り組んだ表現形態をもってようやく触れる、という作業――僕にとってのアート――を信じてるんです。言葉にならないコミュニケーションがアートだなんていうのはかなり能天気でダサいけど、でも自分でも触れたことのないような心の、意識の奥底にふっと触れるって、やっぱり言葉ではできない。脳だけじゃなくて全身のコミュニケーションなんです。
作品に答えを求められるのも困りますよね。例えば「この作品はいろんなクエスチョンを提起しているけど、きちんきちんと答えに向かって発展していかない、答えを与えてくれないからイライラする」って言われたりとか。答えなんかあるわけない、これぞ「dumb!」ですよ。「答えを求めて日々必死で生きてるのに、4千円で何を欲するか、このガキ!」ですよ。そこに混沌があるから想像力が生まれる。混沌がいやだから答えがほしいっていうのは、世界をマニュアル化するっていう態度に通じますよね。現実の問題に触れた時に生じる心の奥底の混沌は、混沌として尊重したい。声にならない声になんとか形を与えるのが現代のアートの指名だと思ってるんやけど、僕達は天才じゃないから、複雑な構造を持った形になってる。でも限りない誠意をもって、その複雑さを複雑なまま尊重してるんです。それは全部言語化できるものではないですよ。

──観客を信じてますか?

結構信じてますよ。その辺を信じてないと、やってられない(笑)。だから、終わってからお客さんとしゃべったりするのもすごく楽しいし。こっちも学ぶことがすごく多いし。

──外国では、出演者がロビーに出てきてしゃべってますよね。

東京の公演も、そういう状況を作るように努力しました。でも外国の観客との大きな違いは、日本ではHIV+の人が客席に非常に少ない。海外でやる時は、みんな見てるんだっていう意識が非常に強いんだけど。やっぱり彼らの反応が僕にとっては大きいし、基本的にはアート・ファンやアート・クリティックのためにやってるんではなくて、彼らに勇気を与えるみたいなことが一番重要だと思って。そういう意味では評論家が何言っても気にならないし。横浜の日本初演の前も、ニューヨークで大親友が死にかけていて、ほんと公演をキャンセルして飛んで行きたかったくらいで。だって彼のパートナーが電話してきて、もうずっと意識不明で、回復してもどうせ長くないから呼吸器を外そうかと思う、とか相談されてて。その方が彼も苦しまずにすむからって。それに集中治療室は一日に4千ドルぐらいかかるんです。死ぬのにいくらかかるか計算したことある? 彼はそこに既に2週間いたし、これからも何日いないといけないかわからない。万が一、回復して退院できても、社会復帰できるとは思えないし。でも、それでもね、僕、絶対に呼吸器外したらあかんって懇願したんです。なんでって言われても、言葉にできない。言葉で説明できない。とにかくあかんって。だから横浜の公演の時は、僕はほとんど客は目に入ってなかったな。僕が今、最低限できるのはこれなんだ、これで許してって、アートに逃げた。キャンセルしてニューヨークに飛んで行っても、実際何もできひんしね。でもね、嘘みたいな話やけどね、その彼が12月に入ってから回復してね、今はなんと会社にも行き始めた。僕はもう、こんなにいい気になったことはないですよ。僕はこれで「芸術は存在する」って辺な自信を持ったな。彼を救済したっていう意味じゃなくて、自分を救済したっていう意味で。なんかエゴイスティックに聞こえるけど。ほんまにあの頃、吐きそうなほど暗かったな。でも、とにかくパイプ外したらあかんってごねたパワーは、僕みたいに何か形のないものを信じてるアホでないと出えへんかったと思う。今はむちゃくちゃ明るいです。

──明日はパーティ、「XXX BALL」(注4)がありますね。見にいきますよ。今回の舞台では古橋さんとミス・グローリアスの二つの顔が出てきますよね。

いろんな顔を楽しんでるんです。一つだと飽きちゃうから。

──ダムタイプの舞台の方は演出がすごくスタイリッシュで、さっきちょっと言ったみたいにアート・ファシズムみたいなところもあるんだけど、人の心を揺さぶるには、日常のリアリティが入ってきた方が力があるように思うんですが。

アートはアート、っていう感じで職人みたいにお城の中にこもって、で、たまに出てきて「どうや、ええもんできたやろ」では、僕は物足りない。そのバランスをとるためにナイトクラブとか、もっとアンダーグラウンドなところでどうしようもないチープなパフォーマンスをしたりとか。海外のツアーの時もその「夜中のダムタイプ」のショーの方が話題になったりして。でもそういう場所で出会う人達って、公演を観に劇場や美術館に来る人達とはまた違うしね。今度の春のパリの『S/N』『pH』2本立て公演の時も、同時にエイズ・ベネフィットの大きなパーティをクラブでできたらと計画してるんです。そういう場所ではアートのコミュニティだけじゃなくて、ゲイやレズビアンのコミュニティや、アクティヴィストのコミュニティまで幅広く出会えますからね。あとXジェネレーションの人達とか、世界の寂しがり屋さんたちと。

7ConversationStylesBW
古橋悌二の初期のヴィデオ作品《7 conversation styles》より



──作品を使って世の中を変えたい、という気持ちはありますか?

結構あるかな、実は。でも具体的に世の中を変えたいといかあんまり思ってない。例えば病院の主治医に見せたいと思わへんもん。だって実際に具体的に変えようと思ったら、そういう人達に見てもらわなきゃいけないでしょ。

──でも、そこでもやっぱりアートの力っていうのはあるよ。政治的に具体的になにかを変えるよりも、アートの方が、すぐに目には見えないけどなにかを変えると思うよ。

長い目で見たら絶対にそうですけどね。

──絶対そうですよ。政治で変われるわけじゃないんだから。政府が変わったって人がみんな幸せになれるのかって。

そういう意味では僕はアートの力も信じてるけれども、具体的な行動にも結びつけたいと持ってるんですよ。アートの観客と、そういう具体的な行動をする人達って分かれてるんだけど、もうちょっと重なってもいいんじゃないかと。

──具体的な行動っていうのは?

例えば、知り合いのアーティストでも、アートの題材としてはそういうことに意識的なんだけど、これは重要なデモだからとか集会だからって言うと、忙しくて行かれへんとか、そんなボランティアやってられへんとか平気で入ったりしますよ。口ばっかりで実際の行動をしない人はすごく多い。一種の選民意識なのかな。一方で、アクト・アップなんかのアクティヴィスト達は、あまりアートなんか見に行かない。あんなものなんの力にもならない、世の中あれでは動かへん、甘い甘いっていう人もいるし。でもね、実際エイズ・アクティヴィズムの限界というのは今どうしようもなく立ちふさがっていて、政治が変わって薬の値段が下がっても、その薬自体が病気に対してさほど有効じゃないとしたら、あまり意味がない。科学の限界は変えられない、というジレンマは大きいよ。いくらこぶし振り上げたところでやっぱり死ぬやんって。それはちょっと寂しいです。これからはアーティストとアクティヴィストが歩み寄ることが僕は大切やと思ってる。重なった部分にいる人が増えると、世の中もっと変わっていくような気がする。お互いバカにし合うんじゃなくて、せめて尊敬し合うとかね。

──そうですね。アートだけを信じても、美術館なんかは現実と遠いところ、なんかお城の中みたいなとこでやってますからね。アートを社会的に機能させるにはどこでやるかが重要ですね。美術館のアートなんて、ドライフラワーの美しさですよ。リアルな美しさではない。

一見過激に見えても、所詮、お城の中の出来事ですからね。著名な美術展やビエンナーレでインパクトの強い過激な表現とか話題になったりもするけど、なんでこんなもんこの場所で見せてんのかなこのオッサン、とか思うと結構シラーッとかしてきたり。アート界の出来事なんて、ほんともう遅れてる。〈ブルジョアジーの秘かな愉しみ〉にもなりませんよ、ってその言葉は全部自分にも返ってくるんだけどね。

──スパイラルはお城ですか?

(笑)んー、日本ではお城なのかな。でも明日の一階のパーティでちょっとボロって傾くかも(笑)。傾いたお城って一番かっこいい。そういう意味ではルーブルでパーティしたいな。

インタヴュー/浅井隆
[『骰子/DICE』8号(1995年2月25日発行)所収]



(注1)ダムタイプ(dumb type)
ヴィジュアルアーティスト、ナイトクラブのパフォーマー、建築家、作曲家、振付師などによって構成されるアーティスト集団。84年、京都市立芸術大学の学生を中心に結成。その活動はパフォーマンスやインスタレーションとして14ヵ国で発表されている。様々なメディアを駆使したダムタイプの『S/N』は94年3月にオーストラリアのアデレード・フェスティバルで世界初演、モントリオール、シアトル、横浜を経て、95年1月に東京・青山のスパイラルにて公演が行われた。
(注2)CD『S/N』(NEWSIC)
過去十年間の一連のパフォーマンス作品と『S/N』のサウンドトラックを、新録音で再構築したダムタイプ初のCD。作曲、演奏は結成時から一貫してサウンドトラックを共同作業で創作している、メンバーの山中透と古橋悌二。
(注3)
85年にボーイフレンドを追って初渡米。渡米中は、NYのピラミッド、パラディアム、マーズ、ロキシーなどで歴史的なクラブパフォーマンスを展開し、生計を立てていた。
(注4)「XXX BALL」
95年1月15日に東京・青山のスパイラル・カフェで行われたパーティ。ミス・グローリアスをはじめシモーヌ深雪、マリー・ゴールド、ウラジミール・パウダリーナ(上海ラブシアター)、OKガールズ、キャンディ・パンティ、BUBUらのドラッグ・クイーンがショーを行い、宴が繰り広げられた。



古橋悌二(ふるはし・ていじ)

1960年京都生まれ。アーティスト。京都市立芸術大学美術学科卒。84年京都を中心にアートグループ「ダムタイプ」を結成。集団制作の中でパフォーマンスやインスタレーションなど様々な表現による作品を発表し、世界各地で精力的に活動を行う。94年ダムタイプの『S/N』と同時に、初の本格的なソロワークとして『LOVERS―永遠の恋人たち』を発表。95年HIV感染による敗血症のため他界。




LOVERS

『"LOVERS 59" Teiji Lovers Birthday Bash』
2019年7月13日(土)京都メトロ

19:00 open~ 23:00 close
2,000円 ドリンク代別途
アーバンギャルド・ショウ:
THE OK GIRLS
(砂山典子、田中真由美、薮内美佐子)
DJ:
DJ LALA
南琢也 (softpad)
Hostess:
BuBu de la Madeleine
and more!!!

公式サイト



DICE TALK
―骰子カッティング・エッジ・インタヴュー集

1998年7月発行
出版社: アップリンク

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キーワード:

ダムタイプ / 古橋悌二


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