骰子の眼

cinema

2019-11-20 12:00


1990年前後の日本でカルチャーの交錯点だった映画『グラン・ブルー』

映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』公開記念
1990年前後の日本でカルチャーの交錯点だった映画『グラン・ブルー』
映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT

映画『グラン・ブルー』で知られる伝説のダイバー、ジャック・マイヨールの生涯を追ったドキュメンタリー映画『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』が、2019年11月29日(金)より新宿ピカデリー、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開される。

公開を記念し、パリで187週連続上映という記録をうちたて、怒涛の社会現象を起こしたリュック・ベッソン監督の名作『グラン・ブルー』のオリジナル版(デジタル・レストア・バージョン)が、11月22日(金)~11月28日(木)の1週間限定でアップリンク吉祥寺にて上映される。

日本で『グラン・ブルー』は大ヒットし、公開から30年以上経った今なお多くのファンに支持されている。この映画をめぐる当時の日本の文化的状況について、カルチャー誌『STUDIO VOICE』元編集長である品川亮氏による解説を以下に掲載する。



『グラン・ブルー』と1990年前後の日本

文/品川亮(文筆・映像制作)

1999年末のことだったと思う。月刊誌『STUDIO VOICE』のために、『地球交響曲』シリーズの監督、龍村仁を含む鼎談の収録をしていた時のこと。場所は帝国ホテルの一室だったはずだ。話が盛り上がってきたところで、フロントから内線が入った。「龍村様宛に、ジャック・マイヨール様がお見えです」というのだ。マイヨールは、1995年に公開された『地球交響曲第二番』に登場していた。だから「なるほど」と思いこそすれ、驚きはなかった。それでもその瞬間、『グラン・ブルー』が好きだった頃の自分がよみがえり、つかの間、気分の昂揚をおぼえた。顔には出さなかったと思う。

つまり99年末の段階では、好きだったことを恥ずかしがる気持ちがあったことになる。なによりも、リュック・ベッソンはその時点ですでに、まぎれもなく“ダサい”映画作家だったし、それとは別の次元で、『グラン・ブルー』が通俗化したジャック・マイヨールの精神性のようなものを冷ややかに見る気分もあったからだ。

映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT
映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT

1995年3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件からまだ5年も経過していないという、“精神世界/スピリチュアリズム的なもの”が、すべてまとめて圧殺されつつあった時期のことである。もちろん、“精神世界/スピリチュアリズム的なもの”とは何か、ということについては、議論の余地が大いにあるだろう。だがひとまず、高度経済成長期からバブル経済期にいたる、経済や効率、科学技術を軸とした社会に異論を唱え、従来“科学的”とされてきた常識の外側にある思考をも根拠にしながら、“人間/社会のより良いありかた”を探求する姿勢、ときわめて乱暴にまとめてしまうことが許されるならば、精神世界的なものすべての息の根が止められつつある中でひとり戦っていたのが、『地球交響曲』シリーズということになる。だからこそ、90年代後半にかけての厳しい状況の中で、あれほど圧倒的な、しかも草の根運動的な支持の広がりを見せたのだ。そこから、80年代の終わりまで遡りながら補助線を引いてみると、『グラン・ブルー』に行き当たる。

映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT
映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT

資料を見ると、映画『グラン・ブルー』が『グレート・ブルー』のタイトルで公開されたのは、1988年夏のことだった。その後、1989年にセル・ヴィデオ化されたあたりから急速にポピュラリティを拡大し、1992年の長尺版公開と共に人気が決定的なものとなる。ヴィデオ・ソフト発売時には、目利きによるセレクトショップとして機能していた六本木WAVEが大きな影響力を持っていたし、長尺版の時にはいわゆるミニシアター・ブームが終わっていなかったという状況が、大きな後押しになったのだろう。私自身の記憶を探ると、フランスで長尺版のLDを購入したのが90年初頭、その後まもなく作品への興味を失っていった。恥ずかしいまでに、ご多分に漏れていない。要するに、かろうじてまだ“カルト映画”だった頃に惹かれ、それが一般化するに従って冷めていったというわけだ。

映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT
映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT

そういった文化状況的要因と同時に、『グラン・ブルー』の描き出した海のイメージと、それに一体化していくジャック・マイヨールの精神性がある。上でも触れたように、そういうものが多くの人を惹きつける力を持ち得た時期だったということだ。マイヨールが、ヨガ、呼吸法、禅といったいわゆる“東洋的”なものに傾倒していたがゆえに日本人に広く受け入れられたというよりも、むしろ“東洋的”なもの、すなわちオルタナティヴな価値に傾倒していく精神性そのものに共鳴する気分を、多くの日本人がその時すでに抱えていたということなのだろう。求める気持ちがあったところに、『グラン・ブルー』がストンとはまった、と言いかえられるかもしれない。

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表紙にイルカやジャック・マイヨールの名前が踊る1990年代前半の『STUDIO VOICE』。

そういえば、1990年には別冊宝島『いまどきの神サマ』が刊行されていた。タイトルに「神サマ」とあるように、アイロニカルな姿勢が基本にある。だが決して、“精神世界/スピリチュアリズム的なもの”すべてを一括して否定する本ではない。むしろ、当時すでにだいぶうさんくさく思われていたオウム真理教への潜入記事では、そういった一般的な見方をひっくり返し、「意外とまともだった」という結論に達していたことが印象的だ。たしかに、その当時私が通っていた大学のキャンパスでも、昨日まで渋谷で遊び回っていたいわゆる“リア充”そのものの友人が、突然、新興宗教団体に入信することがたびたびあった。少なくとも、そういう余地というか選択肢の幅が、あの頃には存在していたのだ(思えば、80年代末の“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ”の残響の中で、『STUDIO VOICE』のリニューアルが行われたのも、1990年のことだった)。

映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT
映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT

とはいえ個人的には、あまり『グラン・ブルー』の精神性には惹かれていなかったように思う。社会になじめない純粋な青年ジャックと、世間知にたけた親友エンゾとの、“バディもの”的な部分の方に魅力を感じていたと記憶している。その頃、浦沢直樹の『MASTERキートン』(1988〜1994年)にも、あからさまなまでにエンゾ(=ジャン・レノ)なキャラクターが、主人公キートンの幼なじみチャーリーとして登場していた。そういう角度の方が、自分の感覚に近かったはずだ。

とはいえ、やはり“社会になじめない主人公”という部分が重要だったのだろうということに、『ドルフィン・マン~ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ』を見ながら気がついた。現実のマイヨールは、『グラン・ブルー』の内気なジャックとは真逆のようでありながら、それでもやはり、いつでも地上に居心地の悪さを感じていたように見える。そして、たしかに魅力はそこにあると感じられる。つまりはあの頃の私の中でも、『グラン・ブルー』の語る、“地上の社会に居場所を見つけられない人間が、海の底にもうひとつの世界を求めて消えていく”という物語の、特に前段部に吸い寄せられた時点で、すでにしてオルタナティヴな価値を求める気持ちが起動していたのだろう。

映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT
映画『グラン・ブルー』より ©1988 GAUMONT

どうも話がぐるぐる回ってしまうが、まとめるとこんなふうに考えている。まず、映画に限らず“カルト”なものを称揚するコアな文化状況と、その気分を一般の方向へ拡大させ、いわばファッションの一部に変換していく“ミニシアター・ブーム”という外枠があった。そういった文物の豊かさを支えたのは、バブル経済だった。そしてまた、カルチャーの中にオルタナティヴな価値を求める気分も、バブル経済による疲弊とその崩壊後の空虚感によって強化されたものだったにちがいない。少し遡ると1986年にはチェルノブイリ原発事故があり、80年代末にかけては反原発/エコロジー意識も先鋭化していた。そうした中に『グラン・ブルー』は着地し、全ての要素を持つ交錯点になったということだろうか。こうして考えると、『グラン・ブルー』という作品を包んでいたものの中には、日本における1990年前後という時代の空気が、凝縮・密封されていることになる。



品川亮(しながわ・りょう)

1970年、東京生まれ。文筆・映像制作業。著書『〈帰国子女〉という日本人』(彩流社)、共編著『00年代+の映画』(河出書房新社)。またアンソロジー『絶望図書館』、『絶望書店』、『トラウマ文学館』では、英米文学短編の翻訳を担当。映像作品には、『H.P.ラヴクラフトのダニッチ・ホラーその他の物語』(監督・脚本・絵コンテ/東映アニメ)などがある。月刊誌『STUDIO VOICE』元編集長。



『グラン・ブルー オリジナル版 ―デジタル・レストア・バージョン―』
11月22日(金)~11月28日(木)アップリンク吉祥寺にて1週間限定上映

たった一度の呼吸で、グラン・ブルーという誰も到達することのできない、巨大で深い世界へ潜っていく二人の男。彼らの名は、ジャック・マイヨールとエンゾ・モリナリ。どちらがより深く、より長く潜っていられるのか――。

監督:リュック・ベッソン
出演:ジャン=マルク・バール、ジャン・レノ、ロザンナ・アークエット
製作:パトリス・ルドゥー
音楽:エリック・セラ
美術監督:ダン・ワイル
撮影監督:カルロ・ヴァリーニ
配給:角川映画
(1988年/フランス/カラー/137分)

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