2009-12-09

ヒトのインスタレーション このエントリーを含むはてなブックマーク 

 庭劇団ペニノの公演は、いままでに西新宿の空き地での「黒いOL」、こまばアゴラ劇場での「ダークマスター(再演)」の二つを観ている。わたしの観たかぎりでは、「黒いOL」にせよ「ダークマスター」にせよ、大掛かりな美術セットに注目させられ、モノによるインスタレーションの中に人物を配して演劇空間に仕立てる、というところに特色のある集団なのだろうか、などという漠然とした思いがあり、特に「ダークマスター」のラストには、ちょっとした衝撃をも味わった。その後スケジュールが合わなかったりして機会を逸してしばらく観ていなかったのが、今回久しぶりにこの「太陽と下着の見える町」を観ることが出来た。

 観る前に少し情報を得て、そこで精神病棟の患者を描いた作品ということを知り、少し危惧感を持ってしまう。わたしはかつて閉鎖病棟に入院していた友人を見舞いに行って、そこに居る人たちのたたずまいにかなりショックを受けた体験があり、友人の病状もあって、この種の精神の病をテーマにした作品にはアレルギーがある。例えば松尾スズキの映画作品「クワイエットルームにようこそ」なんかも観る前はちょっとイヤだった。でも観てみるとつまりはその病棟の外の世界も狂っているし、患者ひとりひとりの造型にも愛情が感じられて、そういうアレルギーが少し薄れる思いがしていた。舞台では、舞踏の分野で小林嵯峨さんが「アウラ・ヒステリカ」という連作を上演されていたことがあり、これも病んだ精神と身体についての深い考察から制作された、人の抱え持つ深い孤独についての作品で、感銘を受けたことがある。しかし、この「太陽と下着の見える町」の情報に関連して書かれていた夢野久作の「ドグラマグラ」はかなり苦手で、精神を病んだ人の妄想を面白がっているだけのように読んでしまう。だからその「ドグラマグラ」のタイトルが引き合いに出されるこの作品は、ちょっと心配。

 舞台を観て、まずはけっきょく以前わたしが観た作品のようなモノのインスタレーション的な要素はなく、舞台に設置された二階建てセットの、その一階に区切られた四つの病室それぞれで繰り拡げられる、ヒトのインスタレーションとでも言えるものだった。それがつまりは各病室が精神の病例の標本箱のように配置、演出されているわけで、それぞれをバラバラに演出することで(二階から眺め下ろす人たちを含めて)一種のディスコミュニケーション状態を現出させようとしていたように見える。これに男性の抱く女性の下着への視姦的欲望を並列させ、とりとめもない妄想の標本箱をつくりあげているという印象。どうもこの妄想は、舞台の最初に登場してすぐに倒れてしまう、久保井研の演ずる医師の抱く妄想なのではないかと思えるのだけれども、わたしにはその妄想の標本箱に収められた患者たち(?)の演技(つまり演出)がかなり表層的なものに見え、つまりはその症状の表面を見て面白がっているだけではないのかという感想が湧き、またアレルギーが出て来そうになってしまった。

 少し詳しく書けば、その演技(演出)を見て、つまりはそれが言葉で言えば「常套句」的な、表層だけのものだと思えたわけだけれども、例えばSMプレイの演出など、ほとんどギャグ舞台で笑いをとるための演出のような感じで、典型的な(誰が考えてもこうなる)SMプレイからはみ出して来るものではない。女性がベッドの上で正座して落語を語るシーンも、落語という芸の身体性をすべてそぎ落とした演出に見える。つまり、拡げて言えば、すべてのシーンで「身体性」が欠如している。これはこの作品のテーマが「ディスコミュニケーション」なのだとすれば、まずは言葉の問題として捉えるのは致し方がないのかもしれないけれども、一階の人々が登場する最初から、役者は観客席に向かって直立したまま「わたしは今◯◯をしている」という説明セリフを始めると、舞台など見ていなくても一向に構わなくなってしまう。
 しかしその「常套句」の問題は、語られる言葉の中にもあって、特にこの作品のもうひとつの要(かなめ)、下着に対してのうんちくを語るそのセリフの中にも聴くことになる。特に日本女性と羞恥心、下着との関係を近代史の中で語る場面など、聴いていて特に驚かされることもなく、全く周知の常識の範囲を超えないうんちくになってしまっている印象で、そんな誰でも知っている(思い付く)ことを語るなら、(つまらない言い掛かりになるかもしれないけれど)なぜ有名な白木屋デパートの火災の件を絡めて語らないのか、ということがものすごく気になってしまう。この部分の「うんちく」は「そういうことなのか(そういう考えもあるのか)」と、人を説得させるようなものが欲しかった気がする。
 また視覚的なことに戻って、その要の「下着の見せ方」の件になるけれども、これは昔の河原雅彦の「ハイレグジーザズ」が、観客を挑発しながらうまくやっていたのを思い出す。映画ではジョン・ウォーターズの「シリアル・ママ」でのキャスリーン・ターナーなど(おっと、映画では「氷の微笑」という基本があるけれど、アレは下着なしだった)。ああいう「エグさ」がもっと欲しかったというのが、観客としての切なる欲求でした。

 どうもキャスティングに関しても、その「表層」にとどまるというか、見てくれの大きい人、小さい人、肥った人、痩せた人などを選ぶことで、もう演出が終ってしまっているように感じてしまうところがあり、これも、「ヒトのインスタレーション」をやろうとしたであろうとわたしが読み取った理由になる。

 けっきょく、わたしはそういうとりとめもない妄想から導き出される「ヒトのインスタレーション」に拒否感を持ってしまったわけだけれども、この舞台を成り立たせる根本の構造を、わたしが読み取れなかっただけのことかもしれない(単に「とりとめもない」のか、構造が存在するのかが読み取れない)。しかし、前半に頻出する、舞台暗転に区切られたザッピングのようなシーンの連続の中に、もう少し鮮烈なイメージや奇矯なイメージが垣間見られたりしていれば、全体の印象ももう少し変わって来ていたのではないかな、とも思う。基本的にやはり視覚イメージを大切にしている集団だと思うので、次回にはそのイメージをもっと大切にした舞台を創作してもらって、観客の眼を楽しませていただきたいものだと思う。

 

 

キーワード:


コメント(0)


crosstalk

ゲストブロガー

crosstalk


月別アーカイブ