2012-05-18

『私が、生きる肌』クロスレビュー:淑やかな危うさ・苦悩、そして快楽を味わう逸品 このエントリーを含むはてなブックマーク 

「久しぶりに、イってしまってるアルモドバル作品だね、嬉しい(笑)」

そんな声を、試写会後に多々耳にした。どうも、『アタメ』の頃を思い出して、含み笑いをしているようだった(笑)

この映画を観ていると、男というものは、ただただ、純粋無垢さを基底とした行動を採るのだ、と思わされる。他人に、自らを善く見せたいがために、何かを犠牲にすることはせず、ただ、突き進む。愛情を欲することに対して、何の恐れも抱かない。

その純粋無垢な無邪気さを、客観的な視点から観てみたならば、それは「狂気」と名付けられ、主観的?な視点から捉えてみれば、「純粋無垢な、愛くるしい人」となるのではなかろうか。

皮膚。破れやすい肌・癒着しやすい肌・偽りの肌・汗ばむ肌etc。人は、皮膚・肌それ自体だけでは、余りにも無防備過ぎる。自らの本来性・完全足りえることの無い、欠如態としての自己を、無意識的に剥き出しにしてしまう。他者にそれを見られてしまうことは、相手に対して欠点を見せることになってしまう。そうであるが故に、第二・第三の皮膚を身に纏う。記憶という皮膚、自分本来の感情感覚を覆い隠す皮膚、自らを塗り込めてしまう石膏としての皮膚・・・。

「顔」は、その顔を持つ者の自己意識を反映するものでもありながら、その顔を観るものにとっては、自らが常に観ていたい顔を備え持っていてくれたら・・・と、無理な願いを持つのかも知れない。顔に、形姿に、愛が宿るとでも思っていたのだろうか、この彼は。多分、彼は、皮膚を操る医師でありながら・・・粘土遊びをする子供・・・並みの意識であったのかも知れない。

衣服という皮膚によって、また、素肌という皮膚によって、意志疎通しあう人々。溶け合うほどに、互いの意識を、ココロを浸透し合いたいと、人は思うものですが、なかなか上手くはいかないものですネ。

いつもの通り、色彩美・音楽もさることながら、ゴルチエの衣装(虎ちゃん)が可愛かったですヨ★

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桜姫

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“感性の赴くままに生きています。”


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