骰子の眼

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2010-01-24 23:00


東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.3:ロシアより伝統的なモスコビッチ様式の教会

ロシア聖教でのミサ、ピザ屋さんからオペラ劇場指揮者まで存在感をみせるイタリア系移民、そして本場タンゴショー!
東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.3:ロシアより伝統的なモスコビッチ様式の教会
ロシア聖教の神父さんの装束は独特で、カトリックとかなり異なる。

スペイン系に、イタリア系… 南米きっての白人移民国家

アルゼンチンは南米きっての白人移民国家だというが、行ってみるまではいまいち実感がなかった。渡航までにせめて南米のなんたるか? のイメージを持つために、ガルシア・マルケスの小説を読み、アルゼンチンもこんな雰囲気にちがいないと思い込んでいた。ところがどっこい、やっぱり南米だって広いわけでいろいろな国がある。そんな中でもアルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、何かいろんな意味で他の場所とは明らかに違っているらしいことが分かってきた。特に人口比率でいう白人率は実際に非常に高く、その昔に「南米のパリ」といわれただけあって、都市の作りからして違っていた。そして今でも白人中心の世界だということを思い知らされた。

首都で特に偉そうにしているように見えたのは、スペイン系の人たちだった。全体的にホワイトカラーに多いし、なんとなく征服者の子孫という、どことなく偉そうな雰囲気を残している気がした。それだけでなく20世紀初頭になって、それ以外にもヨーロッパのさまざまな国から移民が入ってきただけに、今ではアルゼンチン人といっても多種多様の国の血が入り混じり、そのアメリカ合衆国とは違う意味の移民社会ぶりが興味深かった。

そんな移民の中でも、スペイン系の人とは違う方向に際立っていたのがイタリア系だった。なんといっても、彼らの存在感はいろいろな点で独特だ。街中で一番イタリアらしさを感じたのは、ピザ屋さんの数の多さ。とにかく、あっちこっちで「これでもか!」というくらいピザを見かける。さらに、スーパーの食料品売り場でもラビオリとか、ジェラートの専門店も多いし、気をつけて見るとイタリアンな御惣菜の種類がとても多い!

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チェーン店のテイクアウトピザ屋さんが街の至る所にある。

それに、文化的にはタンゴの発祥の地といわれるのはボカ地区だ(サッカーチームで有名だが、いまだに治安が悪い)。ここは港の近くの場末的な場所にあり、港湾関係の仕事をするような貧しいイタリア系移民が多かったときく。実際に私を案内してくれた現地の友達も、イタリア系の子孫だということでこの辺りの出身だった。彼らは情熱的な身振り手振りを交えて、洪水で水が上がってくるから玄関口が高くなっているとか、自分たちの親の代まで道端で踊っていたことだとかを話してくれた。

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ボカの街角には、たくさんの落書きがあって色鮮やかだ。

今では、さすがにタンゴダンサーたちが観光客寄せに踊ってくれているだけで、滅多にそういう風に一般の人が娯楽のために、道端で踊るということはなさそうだった。ただ大多数の若者がディスコに流れる中、彼らの娘は再びタンゴを習い始めており、世代を断絶しながらも受け継がれているとのこと。いつかまた道端でタンゴを踊る男女の姿が見られるとええなあ。

シチリア出身の天才指揮者がいるオペラ劇場

そんな感じで、ブエノスアイレスを歩くといろんなところでイタリア系の人たちの活躍を目にする。特に建築は際立っている。明らかにイタリアから学んだらしき様式を取り入れたものが多い。本当に驚くべき斬新なデザインのビルを近所で見つけた。その写真を最初に見たとき、本当に衝撃的だった。しかし、実物はもっと素晴らしいかってん。見学会をやっていることをたまたま知って、内装を見せてもらった日には、ただただ溜息が出るばかりのまさに特別な空間が内部に広がっていた。

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パラシオ・バロロ、その独特の存在感はなんともいえない。

この設計、建築に携わったのもやはりイタリア人だったらしい。バローロという名をつけられた、この非常に造形的なビルディングなのだ。これは、どうやら壮大なスケールの夢を描いたイタリア系移民の夢の城やったみたい。ビルの最上階にはガラス張りの灯台を備え、そこから対岸の国ウルグアイを見渡せるほど。当時には珍しいほどの高さの高層建築で、さらに内部のエレベーターや階層、吹き抜けなどのデザインはダンテの「神曲」に着想を得ている。さらに、それに関連する数字を選んで階層を決めたり、かなりのこだわりだったらしい。今でも内部を普通の事務所として利用しているようだったが、それにしても、こんなところで仕事したら一体どんな毎日なのだろう? と思えてくるほどの夢のような空間や。まるで本場イタリアのローマの神殿の如く神聖な気配すらあるねん。そのほかにも重要な政府関係の建物とか、公園の噴水だとか、街を歩くと至る所で目に留まる建築物がことごとく、なにかイタリアを思い出させる。よっぽど本国が懐かしかったんかなあ。部分的には他の国の要素も入っているのだろうが、やはり主張がある建物ではどうしてもイタリアと近い印象がぬぐいきれない。

そういうところはすばらしいねんけど、イタリア人ってのは厄介な癖もある。というのは、イタリア人というのはどうも「ゴミの始末」が適当やねん。要するに、自分の家の中さえ綺麗にしとけばいいって人が多いらしいわ。実際にイタリア南部などでは、平気でスパゲッティの食べくさしを道端に捨てていたり、カフェの床がパン屑だらけだったり、なんかこの辺りの適当さがなんともイタリアン?

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イタリア本場とは、また違った雰囲気のイタリア料理屋さん。

まさにそういう欠点を、そのまま南米にも持ち込んでしまった感じなのだ。そんなわけで、ブエノスアイレスでは大らかというかなんというか、でっかい犬の糞だって、当然のように始末もせずにほったらかし。朝からそういう代物が、道路の真ん中にドカンと鎮座している。まあ、犬の散歩代行業者の若者が10匹くらい連れて歩くもんだから、ちゃんと片付けてないんちゃうかな。そういう事態が、まさにブエノスアイレス市内で頻発してるもんだから、たまらない。もちろん、これを全部イタリア系の責任とは思わないまでも、なんか自分の国でやっていることを、そのまんまを持ち込んだような疑いをかけたくもなる。また、タクシーでの料金のちょろまかしとかも、いかにもイタリア的確信犯に思えるねんけど。

イタリア訛りのスペイン語の魅力

まあ、そういう欠点もありながら、やっぱりブエノスアイレスに良くも悪くも、イタリア系の人たちを欠くことはできんのやろうなあ。そう思うこともたびたびあった。まず現地で最も人気のあるスポーツ、サッカーの解説だって、同じアルゼンチンのスペイン語でも、単なるブエノスアイレス訛りより、もっともっとイタリア訛りの発音のおっちゃん司会者の解説でやってくれなきゃ、なんだか事が始まらんのよ。それくらい、あの解説はおもろい。試合の内容よりもあの乗り方が凄い。ガンガン喋って選手よりも息が切れそうなくらいのスピードとエネルギーでぶちまかしてくるねんもん!

とにかく、イタリア系の人の喋るスペイン語のアクセントはかなり変。(多分あっちも関西人に言われたくないと思うが)とにかく、語尾にアクセントをもってきて、やたら滅多ら伸ばして話す。「イタリアーノ、トレビーアノ!」みたいにすべて伸ばしているように聞こえる。それをバズーカー砲のごとくぶっ放しながら連発するねんから、そのアクセントの砲弾! ラジオなどで、怒涛の勢いと無茶苦茶な情熱をほとばしらせながら、サッカー選手の一挙一動を実況中継するときの、その凄まじさといったら、もうほんま「やめられん」ような魅力があるねん! これには関西のラジオ局の覇者、浜村淳もびっくりやな。

それと似たような乗りとテンポで、他のことを喋らせてもやっぱり、なんか正しいスペイン語に勝るエネルギーがほとばしっていて、とてもじゃないが彼らの勢いに勝てない。ただし、マスコミでも「正統派のテレビ局」にはそういう喋りのアナウンサーは出てこない。当然、アウトサイダー的な中小のラジオ局こそが彼らの活躍の場なんやろな。でも、そんなこと構ったこととちゃう。もう、ブエノスアイレスにはあれがないとあかんねん。

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老舗のトルトーニカフェは、レトロな雰囲気でとても居心地がいい。

ただ、正統派のブエノスアイレスを代表する、歴史あるトルトーニカフェという所でのタンゴショーではこのイタリア訛りが大活躍だった。ここの司会者は、もろにイタリア風イントネーションのアルゼンチン・スペイン語で喋る。彼がタンゴの歌を歌うときはそれほど感じないのが不思議だ。おそらく、日本でもバスガイドなどに見られる「職業的な喋り技術」の一種なのかもしれぬ。「わしはイタリア系移民の子孫やで、それがどないしてん!」みたいな強烈なメッセージ性があって、変な話、美男美女のタンゴダンサーの顔は思い出せなくても、あのおっちゃんの喋りだけは、世界のどこに行っても忘れることができない。それほど素晴らしい喜怒哀楽織り交ぜた最高の喋りやった。あの「トレビアーノ、イタリアーノ」なアクセントの喋りをされると、悲しみも喜びも、なにもかもすべて増長されて感じられるもんやから、ほんまに不思議なもんや。

ところで、本題のオペラ劇場指揮者のことであった。彼は初老の白髪の老人であった。ほんまに小柄そのもので、ちっちゃい蝋人形が歩いてきたかと思うくらいやった。彼はいつまで続くか分からない改装工事のために閉鎖中であったコロン劇場でも指揮をしていたらしい。ただ、そのときは場所を代えて、テアトロ・アベニーダというオペラ劇場のオーケストラで指揮をしていた。本当に長年いろんな指揮者を見てきたけど、こんなにいい意味で正統派の上品な指揮者というのは、初めてやった。それで余計、心の底から「敬愛」の気持ちが湧いてきた。オペラの本場イタリアのシチリア島出身というから、余計になんか独特の哀愁を感じた。今時のクラシック界では微笑ましいくらい、一挙一動に洗練と完成された型がある指揮者やった。ほんまに。ああいういい意味で化石のような指揮者が南米のブエノスアイレスという都市にいるなんて、まさか想像もしてへんやん。正直言って、思いもよらぬ衝撃でもあった。やっぱり世界は広い。日本列島やユーラシア大陸を知っている程度ではまだまだやな~という感じがした。

この人との出会いは、アルゼンチンという国の文化芸術レベルの洗練ぶりを伺わせるものだった。さらに観客のレベルも素晴らしく、久しぶりに気持ちいい観劇ができた。それにコロン劇場ほど有名ではなくとも、このオペラ劇場全体の醸す雰囲気とか、それを守っている人たちの愛情の深さに対して、ほんまに頭の下がる思いであった。みんなで文化を育てているという雰囲気がとてもあるねん。この劇場でも十分に素晴らしかったが、世界三大オペラ劇場のコロン劇場が復活したら、一体どんなことになるのか? 想像するだけでわくわくする関西人であった。

ロシアより伝統的なモスコビッチ様式の教会

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中心部にでんと構えるユダヤのシナゴーグ(教会)

残念ながら、ロシアにはここ数年行ってない。だから今あのときの教会がどうなっているか、ロシア人がもうちょっと信仰心を持つようになったかとか、それについてはあまり定かでない。でもモスクワに暮らしているときは、週末バスツアーとかで、よく郊外の教会を巡ったことがある。あちらの教会というのは、外見も素朴なのだが内部もシンプルそのもの。まあ、悪くいえば有名な教会でない場合、本当に内部は何もなかったりして、それが普通のようだった。もしかすると、宗教弾圧の時代が長かった事情で、内部が空にされたのかもしれん。実際、ソ連時代に「おもちゃ工場」として接収されていた教会の中に入ったことがあるが、なんか痛々しい気配が残っていた。そんなわけで、ロシアで見た教会のほとんどは、本当に気の毒なくらい質素な内装のことが多かった。ただ、90年代後半から国家的にロシア聖教を応援するようになったので、モスクワ市内では玉葱屋根のてっぺんにつけるキンキラキンの十字架だけは、次々と新調されていた。

でもモスクワの中でそんな風に政府が頑張っても、一向に信者が増えているようには見えなかった。相変わらず、無心論者も多く、若い世代はどちらかというとカルト的な宗教にはまる人も多いと聞いた。それでも、なぜか関西人の私はときどき思いついたように、教会に行くことがあった。別にロシア聖教の教義も知らなければ、あまり知りたいとも思わなかったが、なんとなく内部の雰囲気が好きだったのだ。屋根が丸っこい御蔭で教会内部がまるで洞窟みたいにほっこりしている。そして、その空間を照らし出す無数の細くて、黄色っぽい蝋燭の光がなんともいえぬ雰囲気を出しているねん。だから、なんかいつも暖かい気持ちになれる気がしてん。

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外側から見てもなかなか凝った装飾で目を引く。

とはいっても、南米にきてまでロシアのことが出てこようとは思ってもみなかった。それでも毎度のように自分の方にいろいろと「引き寄せ」てしまったらしい。なぜかブエノスアイレスの街角で頻繁にロシア語を耳にした。旅行者なのか、住民なのかはっきりとはしなかったが、それでも、ロシア人らしき人たちが近所に住んでいるというのは、なんとなく懐かしく思えるのだった。

とはいえ、なんとなく街の中心部で教会などの建物を観察していると、どうやらここではロシア人が政治的に何の影響力も持ったことがないようだった。なぜか一軒だけ小さな劇場でマヤコフスキーを主人公にした芝居をやっていた。さすがに政治的に社会主義を賞賛する部分があったり、このときばかりはロシア一色だった。しかし、この劇場自体、かなり分かりにくい場所にあってかなりアングラ的だった。一番中心部にあるのは当然カトリックだったし、それ以外に見かけた立派な建物はユダヤ教会。やはり、ロシア聖教の教会というのは、街外れにあるらしかった。別段、建築的にはたいしたことないのかもしれないが、どんな風に存在しているのか見てみたいとは思っていた。

まあ、ロシアの教会の強みというと、あの玉葱屋根の珍妙な色と形か。あれがある御蔭で、なんとなくヘンゼルとグレーテルのお菓子の世界みたいに「安心感」を漂わせるように見えるもん。さらに、あの外見的な色形だけを見ていると、あんまりカトリックの教会のような重さがないねん。そして、こんな面白い外見の御蔭もあって、たまに旅行ガイドなどにも載せてもらえる。そういうわけで、なんとかロシア教会がある場所を特定できた。

おじさんに連れられ、ようやくたどり着く

しかし地図で見ると近そうな場所なのに、歩いてみると結構遠い。もう歩き始めてしまったし、とりあえずどんどん真っ直ぐ行くことにした。たしか日曜日の午前11時くらいだったか。あまりにも曲がらずに一本道を来過ぎたような気がして、日陰で地図を出して見ていると、いきなり犬を連れた知らないおじさんがこちらにやってくるではないか。

そのおじさんはいきなり私に向かって英語で「こんなところで地図を開いたら危ないやんか! 外国人がこんなところをうろうろしてたら、あかんで。どこに行こうとしてるんか知らんけど、あの高速を越えたら危険な地区やねん。この道は通ったらあかん。違う道から行くほうがええ!」このおじ様の指示で有無を言わさず、進路変更が決定。連れていた犬を無理やり引きずってまで、なんとしても私を連れて行くつもりらしい。そういうわけで、突然大通りに方向転換することとなった。

後で聞いたら、この人は画家で日本にも行ったことがあるらしかった。しかも、家族はアルゼンチンでなく、タイで暮らしているという。だからこそ、日本人がふらふら歩いているのを見て放っておけなかったらしい。つまり、「この国は日本みたいに安全じゃない」というのだ。もちろん、私もそれは分かってるつもりやってんけどなあ。しかしながら、こんなに日曜の太陽が燦々と照らしている時間に、あんな普通の民家が並ぶような道ですら、そんなに危なかったとは思いもよらぬことであった。

それから、親切なこの叔父さんのおかげで、無事に軌道修正した私はまた大通りをひたすら歩き続け、やがてちょっと曲がって、あの懐かしいブルーの玉葱屋根を見つけることができた! この場所というのが、まさに街外れというほかない場所だった。とほほ~とロシア人でもない私が思ってもしゃあないけど。このロシア教会の場所があまりの勢力圏外なことに。さすがにちょっと哀れみを感じてしまった。それでも、そんなことまるで気にもかけない風に、あのメルヘンチックでやたらと陽気で能天気でロシア的に奇妙な造形物のニョキニョキした玉葱屋根は、ブエノスアイレスの青空に、晴れ晴れと浮かんでいるのだ。その姿を見るだけで、こっちまでなんとなくうれしくなってくる。

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ロシア聖教の教会内部は、モスコビッチ様式で装飾されていた

そして、恐る恐る内部に入っていくとウクライナで見かけたのと似たようないかにもイコン風の描き方でマリア様やその随行さんたちが描かれた壁絵がある。そして薄暗い先には、細い階段が二階へと導いている。さらにその階段を進むと、まさにミサの最中だ。こんなところに入っていっていいものかとは思いつつ、それでも普段公開していない内部を見せてもらうには入っていくしかない。ところが、入ろうにもあまりに人が多い。さらに祭壇には神父さんがいはったりするもんで、どうも出入り口の近くにたたずむ程度。行き止まりで動けない状態になってしまった。

しかし、一瞬目を上げると驚きの感情を隠せなかった。なんと見事なモザイクタイルの装飾だろう! これがスペイン語のガイドの方だけに説明があったモスコビッチ様式という奴か。実際のモスクワでお目にかかったこともないのに、こんなところで出会うとは! ブルーのタイルや、細かい模様がなんともいえんねん。なんとなく正統派の香りを漂わせている感じや。ロマノフ朝の王族が昔使っていたペチュカのタイル絵を思い出してしまう。なんや、ここまで逃れてきてたんか。そしてここでなんとか残ったんやろうなあ。本土でことごとく木っ端微塵にされてしまったモスコビッチ様式が、地球の裏のロシアを遠く離れた、こんなところで生き残ってたんか~と、ほんまに信者でもないのに、ほんまに不思議な感慨でいっぱいになってきて立ち尽くす。多分、周りはロシア系移民の子孫とか、その人たちの配偶者や家族しかいないところに入ってきた部外者に「懐かしがられている」とは思ってもみん話やわな。しかしほんまのとこ、関西人はこのとき、勝手に入ってきといて勝手に「我が家に帰った気分」を味わっていたのだった。

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空に浮かび上がっていきそうなブルーの玉葱屋根の教会。

ただ、我が家と勝手に思うロシアの教会と違うところは、ブエノスアイレスでは、ミサの説教が「ロシア語とスペイン語」の逐次で平行して行われること。そして、集まっている人たちの信心深さと礼儀正しさの程度が、まるでチェーホフの世界そのまんまやったことか。あんなに何度も何度もお辞儀したり、自分が聖像(イコン画)に口付けしてから順番が後先になった周囲の人にまですべて頭を下げていく、それも全員それが自然にできる… 関西人には奇跡かというくらいに折り目正しいロシア人子孫たちの姿だった。その半端でない伝統の守り方と、保守的かつ敬虔な態度。そして、小さな子供を連れた人が非常に多く、その伝統を受け継いでいこうという気持ちを強く持った人が多いことも感動的だった。なんというのか、ブラジルの日系人のように彼らも母国のことを憧れ、戻ることはできなくても、その伝統の中に自らを見出そうとするのか。そういう姿を見ていると何か心が洗われたような気がしてきた。とりあえず、なりきり信者のようにその土曜の午後だけ不意にロシア人子孫に混じりながら、ミサの最後までそこに立ち尽くすばかりであった

(文:東知世子)

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■アルゼンチン片思い

これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/21/


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■東知世子 プロフィール

神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。


その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。

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