骰子の眼

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2010-04-16 16:28


『マンガ漂流者(ドリフター)』34回 こんなにも、胸が痛むのはどうしてだろう。さそうあきら「さよなら群青」

「さよなら群青」は、4月23日より携帯サイト『モバイルバンチ』とwebサイト『ほぼ日新聞』で連載再開。20日にはさそうあきらと吉田アミのTwitter対談も!
『マンガ漂流者(ドリフター)』34回 こんなにも、胸が痛むのはどうしてだろう。さそうあきら「さよなら群青」
(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)

きらめくような黄金の時間はいつかは終わるのだ。いずれ別れがやってくる。そんなこと、知っている。大人なら、とうに経験していることだ。

さよなら群青。この美しい言葉の連なりに胸が痛むのは、やがて訪れる別れを連想させてしまうからだろう。ページをめくり、物語に没頭していても、ふとしたきっかけで、この言葉が頭を過ぎる。いずれこの楽しいひと時は、終わってしまうのだと思うと、同時に切なさがこみ上げてくる。

さて、このタイトル「さよなら群青」とは、何を指すのだろうか。誰かとの別れ? 子ども時代の終わり? それともその全て? 明確な答えはまだ、明かされてはおらず想像は広がるばかり。

そんな終わりの季節を予感させる、さそうあきらの「さよなら群青」とは一体、どんな作品なのだろうか?

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(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)1巻より

■あらすじ

ある月夜の晩に、少年・グンは死にゆく父を舟に乗せ大海に漕ぎ出る。

グン 人の世に触れるがよい
お前がこれから向かう世界はな
人間でできている──

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(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)1巻より

住み慣れた無人島を離れたグンは、漂着した島ではじめて父以外の人間に出会った。
父が生きていたことを覚えていてほしい。と、海辺に集まった島民たちに父の遺体を見せたグン。しかし、招かれざる彼の行動に島民たちは戸惑いを隠せない。ただ一人、海女の少女・岬だけが、彼と父の遺体を見つめ返した。グンはたちまち、その美しい少女に恋をする。

父の遺言どおり、この島で生きることを決めたグンだが、よそ者の彼を島民たちがすぐに受け入れてくれるはずもなく、とりわけ島の大人たちは頑として受け入れようとはしなかった。そればかりか島から追い出そうと冷ややかに対応する。その理由には、15年前に起きた「ある事件」が関係しているらしい。そんなことを知るすべもないグンはもちまえの天真爛漫さで少しずつ島民たちとの距離を縮めていくのだが……。

散らばったピースが一つずつかちりと合わさり、徐々に明らかになる島の秘密。グンという新しい風が、閉ざされた島にどう変化をもたらすのか。そして、5年前にグンの父親が関わっていたという島で起こった事件とは? 岬とグンの恋の行方は?

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(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)2巻より

連載も佳境に入り、ますます盛り上がりを見せる「さよなら群青」。同作は4月23日より掲載を『週刊コミックバンチ』(新潮社)から携帯サイト『モバイルバンチ』、そしてwebサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』(以下、『ほぼ日』)に移す。雑誌社が運営するwebサイト以外の媒体で、新作マンガが連載されるのは、これまでにない試みだ。なお、『ほぼ日』では、「さよなら群青」の特設サイトを設けているのでこちらも併せてチェックしてみてほしい。

さそうあきらプロフィール

84年に第3回講談社ちばてつや賞大賞「シロイシロイナツヤネン」でデビュー。以降、『週刊ヤングマガジン』(講談社)や『漫画アクション』(双葉社)など青年誌を中心に活躍する。99年に天才ピアニストの少女と絶対音感を持つものの平凡な大学生との交流を描いた「神童」が第2回 文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞および第3回手塚治虫文化賞をダブル受賞。一気に注目を集めた。同作はクラシック音楽をテーマにしたマンガの先駆けとして、後続するマンガ家に多大な影響を与えた。08年に再び、指揮者をクローズアップした「マエストロ」で、第12回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。評論家や識者の間でも高く評価されている。06年から京都精華大マンガ学部マンガ学科の選任教員に就任。そのほかの主な作品に「俺たちに明日はないっス」、「トトの世界」、「コドモのコドモ」(ともに双葉社)などがある。
さそうあきら公式サイト

さそうあきらは、ミュージシャンにおける「ミュージシャンズミュージシャン」のように、多くの作り手からリスペクトされており、ファンを公言する同業者も多い。そんなことから、通好みのマンガ家という印象を受け持つ人も少なからずいるのではないだろうか。

コピーライターの糸井重里もファンを自認する一人だ。『週刊コミックバンチ』で、さそうとの対談を果たした糸井は、4月9日に発売された最新コミックス3巻の帯に推薦文を寄せている。さらに自身の運営する人気webサイト『ほぼ日』でも「さよなら群青」を掲載を決めた。それほどまでに、人の心を動かす、「さよなら群青」の魅力に迫りたい。

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「さよなら群青」(新潮社)1~3巻

何を隠そう、この私もさそうあきらファンの一人。しかし、当時はまだ子供だったこともあり、その魅力に気がつくことはできず、何年も過ぎていった。

「神童」を読んで変わった自分の中の評価

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がらりと自分の中で評価が変わったのは、97年に『漫画アクション』にて連載を開始した「神童」を読んでからだった。天才ピアニストの少女が聴覚を失い、再び音楽に出会うまでを描いた同作は、単に音楽に焦点を当てるだけではなく、さらに音そのものを「聞く」こととは何なのかを問うものであった。この連載を読んでいる方ならご存知の方も多いかと思うが、私は15年近くヴォイスによる即興演奏を行っている。もちろんそれは、「神童」で描かれたクラシックからは程遠いのだが、同じく音に向き合う姿勢には共感できたし、音にまつわる超常的な現象には思い当たることも多かった。とりわけ、惹かれたのは、聴覚を失ったあとの世界の描き方だった。

文庫版「神童」1巻(双葉社)

耳が良い、音楽に愛された少女は、この世界を耳から音の情報のみで理解していた。色もかたちも匂いも味も五感すべてを聴覚一点のみで補っていたのだと彼女が気づくのは、聴覚を失ったからだ。あまりに過酷な試練であることに代わりないが、同時に彼女の世界が開かれていくことでもあった。

音は体に共鳴する。耳が聞こえなくても感じることができる。健常者でも障害者でも同じ音を感じることができる。聾唖者も音楽を求めている。聞こえないからといってその道を閉ざさないで。そして、聞こえる人も耳を澄ませば、体の内から鳴る音に気づくことができるのだ。

少女に名は「うた」。その名を体言するように、自分の内で鳴り響く歌を発見するのだった。

一つの波紋が幾重にも広がり大きな反響となって、胸を打った。

読者が天才の少女と自分は違うと線を引き、どうか耳を塞いでしまわないで。そう作者が語ったわけではもちろんないが、私はそんな風にこの物語を受け取っていた。物語前半の明るいお日様のような日々ののちに訪れる、先の見えない暗い日々。何の言葉も届かない世界。あまりに残酷な話だと感じる人もいるだろう。現にこのマンガをすすめた人の中には、後半の展開がつらくて読めないと語った人もいたほどだ。

キャラクターに過剰な感情移入をすることなく、物語のためなら修羅にもなる。これはそんなに容易なことではない。さそうあきらと、似たタイプの作家に山岸凉子がいるが、「舞姫 テレプシコーラ」第一部の展開が与えた衝撃とはまた違った絶望感がそこにはあった。

「俺たちに明日はないっス」のような、青春モノ(?)

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「神童」以降のさそうは、バイオレンス、犯罪など異常心理好んでテーマに描くようになるのだが、もともと、さそうは野球少女が主人公の「シーソーゲーム」や「俺たちに明日はないっス」のような、青春モノ(?)を得意とする一方で、どこか壊れた人を狂ったまま描くのがうまかった。例えば、87年に「ヤングマガジン」にて、連載された未開の地に暮らす首狩族の少年が主人公の初期作品「プイプイ」では、好きな女の子の死を悲しみつつ、その死体を食べ、勃起してしまう描写がある。物語の内では、当たり前とされる常識も物語外から見れば非常識であり、反道徳的に映るだろう。しかし、さそうは、物語の内部に決して外部からの視点を介在させることはなく、そうすることで、より異常性が際立たせることができた。正常な人間が考えた模範的な狂気を外れ、読み手の当たり前を激しく揺さぶる。

新装版「俺たちに明日はないっス」(小学館)

これは分かりづらいといえば分かりづらい。実際、分からないもの、と切り捨ててしまえば簡単だったし、「神童」以前の作品では、分からないものの内なる声はあまり重要視されてはこなかったように思う。例えば、主人公が虫と人間のあいの子の「虫2タマガワ」では、虫人間たちは人間とは相容れない価値観を持ち、特に貞操観念が完全に欠如している。その価値観に影響された人間と虫人間とが、セックスしまくり多くの虫人間の子どもが生まれるという悪夢のような展開に。掘骨砕三 の「ひみつの犬神コココちゃん」やサガノヘルマーの「ブラック・ブレイン」を一瞬連想してしまうが、物語に必然性のある2作と比べても、モラルの崩壊があまりにも軽く、必然性が感じられないのが、かえって恐ろしい。作者特有のシニカルな視点は、分かりやすいカタルシスから程遠く、そのことがさそうあきらの作品を玄人好みといわしめた遠因かもしれない。もちろん、これはこれで、面白いんだけど。確かに一般受けはしないだろう。現にこれらの作品は絶版になって久しい……。

衝撃作「トトの世界」

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「さよなら群青」を語る上で、もう一冊、紹介したいのは「トトの世界」である。幼い頃より犬に育てられた少年は、ある日、彼を監禁、虐待していた猟奇殺人犯に「ゆけ 行って言葉の世界で地獄を見ろっ」という言葉とともに外界へと放たれる。そして、真琴という少女と出会い彼女にトトと名をもらう。言葉を覚え、次第に人間らしくなっていくトトだが、彼にとって言葉を得るということは、自らを知ることでもあった。トトの過去に隠された恐るべき事実が暴かれるシーンは、あまりに衝撃的である。また、一度見たら忘れなれない死体描写はトラウマになること必死。これまで数々のホラーマンガを読んできた私だが、もっとも恐ろしい死体は何かと聞かれれば、この作品を迷うことなく挙げている……。

文庫版「トトの世界」1巻(双葉社)

「神童」では、「音」が、同作では「匂い」が重要なキーポイントとなっており、言葉を使ったコミュニケーションに焦点を当てているのが共通するところだろうか。喪失の苦しみを描いた「神童」に対し、「トトの世界」では、何も持たない者が人間らしい感情を知っていく。喪失のあとに再生が訪れた「神童」が引き算の物語なら、「トトの世界」は足し算の物語である。プラスされる感覚や感情のち、訪れた結末はまるで正反対であった。聴覚を失ったが、無限の可能性を手に入れたうたと、自らの可能性を捨て、ただ一つの言葉だけを得たトト。どちらが幸せなのか、それは当人にしかわからないことだ。

こうして、あらすじを追ってみると「さよなら群青」との共通点が浮かび上がってくる。言葉を知ることが苦痛しか生まなかったトト。言葉を知ることで、他者の気持ちを知り、自分の気持ちを伝える喜びを知るグン。年もほとんど同じ、15と16歳の少年なのに背負ったものはあまりにも違いすぎた。

さそうあきらは、「トトの世界」で描ききれなかった言葉の力を「さよなら群青」で描こうとしているのではないだろうか? そんな推論が浮かんだ。

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(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)1巻より

グンは、不思議な少年である。裏表も嘘もない。岬がグンのことを「真っ白なノート」だと、表したように、彼は無垢なる存在として描かれる。一方でトトは、膨大な言葉が書き記された「真っ黒なノート」を開き、過去を知り、忘れることを選択しなければならなかったのに、だ。グンにはそれがなく、ただひたすらに明るい(完結していないので、今のところだが……)。

もしも、グンにトトのような、残酷な境遇があったとしても、人々と新たに築いた信頼関係が揺らぐことはないだろう。外界へ飛び出したトトと外界からやってきたグン。その性質は明らかに違うのだ。

グンが漂流した波切島は、内に引きこもり、変化を拒む人そのものだ。もちまえの好奇心で、臆することなく人と関わりを持ち、声をかけていくグン。変化の風を送り込む彼によって15年前に止まった時を刻みはじめる。どんなに不幸な恐ろしい過去があったとしても、臭いものに蓋をするように、封印してしまってはならない。外部の視点を認めること。鏡のように映し出された罪を認めなければ、許されることは一生ない。それは、生きながら地獄に落ちることである。その地獄から救い出されるとき、大きな感動が訪れるだろう。

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(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)1巻より

さよなら、また会いましょう。

私が「さよなら群青」という作品に期待するのは、さそうあきらがこれまでの作品とは違う道、答えを描こうと、挑戦し続けてきた作家だと知っているからだ。言葉とは誰かに気持ちを伝えるためにある。コミュニケーションの手段だ。言葉にせずとも分かってしまえる世界を「神童」で描き、言葉によって苦しめられる世界を「トトの世界」で描いたさそうが新たに挑戦する「さよなら群青」。その結末がどんなかたちであったとしても、ここまでに描かれた世界の美しさは決して色あせないだろう。

「さよなら」の言葉のあとに、「また、会いましょう」が続けばいいのに。そんな我がままを言いたくなるが、口を噤もう。ただ、このあとに続く物語を最後まで見届けたいと思う。
さきほど「さそうあきらのマンガは玄人向け」と書いたのだが、実はこの評価は今となってはあまり当てはまらない。なぜなら、「さよなら群青」はとても良い作品だからだ。もしもあなたがまだ、さそうあきらのマンガを読んでいなかったり、過去の作品を読んでピンとこなかったとしたら、その評価はいったん保留にしてほしい。そして、まっさらな気持ちで「さよなら群青」を読んでみてほしい。さそうあきらがこれまでの作品を経て行き着いた境地がそこにある。

作家の中には、はじめから作風が完成されている人もいれば、さそうあきらのように徐々に進化していくタイプの人もいる。それぞれに良さはあるのだが、さそうのようなタイプの作家は年代を追って読んでいく楽しみがある。何より最新作が一番、おもしろい!と言い切れることができるのは、なかなか痛快なのだ。

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(c)さそうあきら 2009/「さよなら群青」(新潮社)1巻より

(文:吉田アミ)


【関連リンク】

■「ほぼ日」特設サイト

http://www.1101.com/sasou/index.html

■コアミックス

http://www.coamix.co.jp/

■モバイルバンチ(携帯サイト)

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お知らせ!

さそうあきら×吉田アミによるTwitter対談開催決定!

「さよなら群青」著者のさそうあきらさんと『マンガ漂流者(ドリフター)』の吉田アミが、Twitter上で対談します!!

★開催日時:4月20日(火)21:00~

詳細は決まり次第、webDICEのトップページにてお知らせします。

Twitterアカウント

・さそうあきら→http://twitter.com/akirasaso
・吉田アミ→http://twitter.com/amiyoshida
・webDICE→http://twitter.com/webdice

吉田アミPROFILE

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースによるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカ デジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)、小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」(講談社)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。また、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社)やタナカカツキ「逆光の頃」の復刻に携わっている。現在、マンガ批評の本を準備中。
ブログ「日日ノ日キ」

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