骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2010-10-14 00:10


「自然の営みの一貫として、人間のセックスをどう捉えるか」『夏の家族』で岩名雅記が常識の生活や制度に突き付ける身体表現

ロッテルダム映画祭などで公式上映。世界が注目する才能が、拠点とするノルマンディを舞台に描く現実と狂気。
「自然の営みの一貫として、人間のセックスをどう捉えるか」『夏の家族』で岩名雅記が常識の生活や制度に突き付ける身体表現

舞踏家・岩名雅記が監督を務めた新作『夏の家族 A Summer Family』が現在渋谷アップリンクXにて公開されている。物語はフランス南ノルマンディに住む日本人舞踏家カミムラと妻、娘、そしてカミムラと同棲する愛人との関係を描いており、その過程で、人間の奥に潜む狂気を白日の下にさらしている。処女長編『朱霊たち』(2006年)に続く長編劇映画第二作となる今作で、自然と共鳴するかのような大胆な肉体の描写に挑戦し、「賛否両論は当然」とする岩名雅記監督に聞いた。

「'狂気'の窓から眺めた'現実'はかくも美しい」というキャッチの意味

── いよいよ公開がスタートしましたが、観客の反応をどのように感じていますか?

まだ反応ですとか自分の印象を申し上げるほど時間が経ってないけれど、難解だと感じられる感想も、すごく良かったという感想も両方ありました。こうした映画はお客さんも映画を選ぶでしょうし、少し僭越な言い方ですけれど、こちらもお客さんを選ばざるをえないというか。一般映画だったらもう少しこういうふうに説明してあげれば、もっと解りやすいんじゃないのということがありますが、それよりも、イメージですとか感覚的なものを優先したいと思うと、どうしてもこういう映画の作りになってしまうんです。
それとちょうどライブのショーと同じで、同じ映画を上映しているんだけれど、お客さんの雰囲気とか人数もあって、空気というか空間が変わって見えてくるんです。今日は特にそれを感じたのですが、昨日は雨もあって夜の回は非常に無残な意識になりました(笑)。

── 肯定の感想も否定の感想の双方があるだろうということは予想されていたと。

もちろん、頭から認めざるを得ないですね。これで大多数の方が良かったという反応になると、こういう映画にはならないと思う(笑)。

── 舞台であるノルマンディの風土が非常に物語にも影響しあっているという印象がありました。この映画の発端もそのノルマンディという場所を描くことだったのでしょうか?

南ノルマンディは、夏は本当に過ごしやすい場所なんですが、秋口から春の初めまでは過酷な寒さの場になる、そういう変化のある季節を紹介したいという気持ちがありましたね。
そういうと聞こえはいいんですけれど、自主制作映画で予算が限られているなかで、男女の三角関係、娘を含めた四角関係という基本的な人物の構図は先ずコンセプトの中にあったんです。それをどういう風に映画で実現するかといったときに、簡単に言えばノルマンディは、僕が日常生活を送っている場でもあり、仕事の場でもあるんです。映画で描かれているように、夏場はたくさんの生徒さんが来てくれる。だからその場の中へ物語を投入することで、予算の削減を図った、というと消極的に聞こえますけれど---。

──完成させてみて、その試みは成功したと感じますか?

よく反応として出てくるのは、ドキュメンタリーだかフィクションだか解らないという幾分否定的な言い方。もう一方では、うまく実写部分を使っているという肯定的な反応がありました。ドラマとして観るならば、プロの俳優さんを使ってフィクションとして完全に成立させてしまえば、もっとお客さんは楽に観られると思うんです。ただ、(ノルマンディという)場を使うということで、3分の1くらいある実写部分になじませるという意味で素人である舞踏家を使った。そこに演技力のあるプロの俳優さんが3、4人入ったとしたらきっと逆に違和感が出てしまう。実写とドラマ部分の折り合いをつけたということでしょうか。

──ストーリーはありつつもドキュメンタリーの質感も持った作品になっていて、現実と非現実が交錯する流れに関しても、境界線を崩してくれる作品というか。

特定の登場人物の視点から眺めた現実と、ドラマを客観的に眺めている視点とが混在しているところも主題になっているんです。チラシにある「'狂気'の窓から眺めた'現実'はかくも美しい」というキャッチは、そういう意味です。

──狂気と正気の境はどこにあるのだろうと考えさせられ、観る人それぞれできっと様々な感じ方をされるであろう作品になっていて、そこも魅力になっていますよね。

舞踊の場合は違うけれど、一般的に映画にしても演劇にしても、ある結論とか回答とか、あるいは演劇的にいうとカタルシス、息を吐く、というんですか、そういうところへ持っていくためにドラマはうまく構成されている。けれど僕の場合は舞踊的な発想があって、特に即興的な発想が強い。これはほとんどの映画人は冗談じゃないと言うんでしょうけれど(笑)、どこへ結論を持っていくかというのは、そんなに大事なことじゃなくて、むしろその突き当たったところでどう対応していくかということが今回の自分のテーマです。映画自体の作りもそうできている。簡単に言うと、最初はふたりの女性(妻と愛人)と娘の三人の関係を書いていたんですけれど、だんだんカミムラ(岩名演じる舞踏家)の部分が増大していって、ああいうところにいったというのが正直なところです。ただそれをあまり僕は悪いことだと思っていない。もちろん最初から良く書き込まれていて完璧なシナリオを作るということも大事ですけれど、そうじゃない方法もあるんじゃないかと。

──では実際の制作も着地点はあえて考えずに?

いや、考えたいんですけれどね(笑)。例えば沼の中の鏡のシーンで、鏡の乱反射ですごくいい画が何カットか撮れて、この部分をふくらませていかなければいけないなと。そこにドラマがついていったというところもありましたね。

──それは即興的な制作方法ですね。

そうなんですけど、舞踊と違うのは、マシンが介在してきますから、そんなに簡単にはできないわけで。そうした変更に伴う撮り直しのときがまた大変でした。

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社会の要請に基づく競争で制度的になっていく日本

──UPLINK INFORMATIONのインタビューのなかで「踊るということがいま制度のなかに組み込まれてしまっている」というお話がありましたが、その点もこの映画のテーマと言えるのでしょうか?

映画ってお金がかかりますからそう簡単にできないということは確かですよね。じゃあ踊りは、というと体ひとつあればいい、僕もそういうことで35年やってきたんです。ヨーロッパでは、きちんとした教育を受け高名な師がいる、有名な劇場でやること、知名度が高くなって一定の評価を受ける、大きなフェスティバルで賞を獲るとか幾つかのステップがあるんです。そういう意味ではかつて日本とアメリカではそういうものはなくて、それこそ靴磨きしていたダンサー志望の人が翌日スターになってるみたいなことが昔アメリカではあったわけでしょう?一方イギリスでは偉大な俳優にはサーの称号がついたりすることに象徴されるように、ヨーロッパでは位階制で段を上っていく。ところが最近ではだんだんアメリカも日本も制度的になっている。
僕ら古い世代の感触では、日本の演劇人というのはもともと河原乞食であり、女性のダンサーや女優さんはどちらかというと色を売る、体を売るということとどこか繋がっていたということがあって、僕はそれはぜんぜん否定しない。むしろそういう動機があった方が、踊りや演技のモチーフとしては強いと思う。だけど今はどんどん位階制の社会になっている。僕もときどきやりますけれど、道ばたで踊ってる人は食えないからやってるとか、場がないからやってるんじゃなくて、そういう場所を好んで選んでやってるんですね。ところが、オーソリティ(権威)の側からすると道ばたで踊っているからどうしようもないというハンコを押してしまう傾向がどんどん強くなってくる。日本に帰って来てもそのへんがちょっとうそ寒い感じがします。かつてはそんなことなかったんですけどね。僕らが始めた70年代あたりはそういう人がいっぱいいて、今でもその何人かが続けていたり、位階制を上って有名になっちゃった人もいますけれど、いずれにしてもそういうことが許されていた。

──それはいま、社会全体として窮屈さを感じられていると?

そうです、それは社会的な要請に基づく競争社会ですね。つまりひとつのスタートラインからドンッと出発して早くゴールに着くものを勝ちとする。オリンピックを見てもそうですけれど、早くゴールに着くために、筋力をつける。そのためにお金をかける。そういう社会にどんどんなってきているけれど、実はそうじゃなくて、スタートラインが仮にあったとしても、その線は無数にあって、いろんな方向に向いていていいわけだし、そこで勝手にスタートを切っていいはずなのに、それがだんだん許されなくなってくる。さらに怖いことは、権力的な立場にいる人がそういう考え方をするのはいたしかたないとしても、一般の人たちがそういう考え方を当然だとしているのが最近の傾向じゃないかなと思う。昨日(初日)、小学校の友達が9名も来てくれたんですね(笑)。悪口じゃなくて、当然ですが、常識の生活のなかで生きている代表者みたいな彼らが「全くわからん。おまえはこうやって普段話しているといい奴なのに、どうしてあんな映画作るんだ」って言うんです。だから、全体にみんなの意識がそういう方向に向かってるんじゃないかな。

──作品のなかでもオリンピックのエピソードのくだりで「日本人の精神のたたずまい」という台詞が出てきます。

あれはいささか論議を呼んでるみたいです。「非常に右翼的発想で好きじゃない」という人もいました。僕は右翼左翼ということはまったく考えていないし、ただ言えることは、突出した意志を持った人は、右翼でも左翼的な意識を持っていたり、左翼でも右翼的な意識を持っていると思うんです。矛盾しているようだけれど、たぶんその突出した意識こそが「精神のたたずまい」だと思う。ある人は「そういう言い方を岩名さんがするのはとても寂しい」と。つまり、60年代以降に生まれた人たちに対して理解がないという言い方をしていましたが、決してそういうことはないんです。ですけれど、全体の趨勢としてはそういうことは言えるだろうなとは思っています。

──個性を大切にしようと思っている人にとっては、孤独感を感じやすい時代になっているということでしょうか。

突出している人と遅れている(不自由な、というべきか)人の両方が切られてしまう世の中ってすごく貧しいと思います。例えばハンディキャップがあるとかお金のない人をケアする社会はもちろん必要ですけれど同時に、他と異なるという意味での突出した存在がたくさん出てきて、その多様性を認める世の中がいちばんリッチだと思います。

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作り手には作り手の自由があると同時に、他者に弊害を及ばさないように努める義務がある

──『夏の家族』からは、いまお話いただいた岩名さんの考えが、ノルマンディの四季の移り変わりのなかで自然や動物や植物が朽ちていく姿と、登場人物の心の変化が融けあった映像から、説明的でなく伝わってきます。

確かに植物を撮っていても繋ぎのカットとして撮っているわけではなくて、例えば紫陽花(あじさい)が春先に芽生え、夏、秋を過ぎて冬に死に絶えるまで人間の人生と同じだということですね。そうした自然の営みの一貫として、今回のテーマの一つである人間のセックスがどういう風に捉えられるかということです。「ぜんぜん必要がない」という人もいますし、「性描写はものすごくインパクトを持っていた」と言ってくれる人もいます。

──自然の営みを描くのと同じように、セックスも描写もされていると感じました。

みんなはすぐにポルノグラフィに結びつけるんです(笑)。僕は、昔の日活ロマンポルノ時代の作品の幾つかは非常におもしろかったので観ていましたが、今のポルノ映画とかAVはあまり観てないんですよ。「提言」という短文を書いて(UPLINK Xの)壁に貼っているんですけれど、自分の体のなかにリスペクト(敬愛)するべき部分と軽蔑する部分を作っちゃいけないと思うんです。人間の体というのはすべてが自然なわけですから、すべてが大事で。もちろん頭脳や手は知的な作業のために大事ですけれど、ヒトはうんこもするしセックスもする、そのすべてが人間なんだから、そこにどうして仕切りをするのか。もちろん社会通念としては解るんです。僕だって街の中を裸で歩けるかと言われても通念がそうなっていませんから難しいですけれど、日本の社会はあまりにもその通念にこだわりすぎているんじゃないかなと。
これは浅井さんとも話したんですけれど、作り手には作り手の自由があると同時に、他者に弊害を及ばさないように努める義務があると思うんです。その両方をきちんとやっていれば、表現の自由、ものを作る自由は尊重されるべきです。一方的に「これはだめ」という言い方は世界的にもはや通用しない。

──ギリギリの表現をしているアーティストならなおさら、弊害が及ぶかもしれない側からの視点も持つことが必要ということですね。

セクシャルハラスメントって言葉がありますけれど、例えば上映でお客様がまったく意図していなくて突然見たくないものを見せられてしまった、それもセクハラです。それは僕らもよく解っているし、本当に注意深くやらなければいけない。でも『朱霊たち』を撮ったときに、映倫さんから「お尻はオーケー、前はダメ」って答えが来たんです。それを読んだ時に僕は数秒間意味が解らなくて、この人はゲイなのかなって(笑)。規制する対象に対してその内容についてはまったくタッチせずに、規則だけを書いてくる。こんなばかばかしいことってないと思うんです。

──これから上映が続きますが、監督はできるかぎり劇場にいらっしゃるそうですね。

お客さんの反応も見たいですし、よほどのことがない限りは居ります。最初に申し上げたように映画に対する見方はお客さんの雰囲気とか人数によっても変わってきますし、自分自身の内部の問題でも変わります。だから、象徴的な言い方をすると、毎日同じ(自分たちが作った)映画を観ているのに、「今日の映画はよくできた」「今日の映画はまずかった」と本当に感じるときがあるんです。観る対象とその外側にあるものの交換、それが映画のおもしろさだと思うんです。他の人の作った映画であれば冷静に観られるけれど、自分たちの作った映画だからその日の生き死に関係する。呼吸が違ってくるんだと思いますよ。

※本作品はアップリンクの自主規制によりR18指定にて公開いたします。

(インタビュー・文:駒井憲嗣)


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岩名雅記 プロフィール

1945年東京生まれ。演劇活動を経て、75年師もなく突如ソロ舞踊を開始。84年迄に全裸、不動、垂立による実験的ソロ・パフォーマンスを150回以上にわたって展開。83年仏アビニョン国際演劇祭招待を機に活動の中心をヨーロッパに移す。「全裸の捨て身と爪先立ちの危機感(合田成男)」で人々を魅了、現在まで40カ国100都市でソロ活動を展開。96年フランス南ノルマンディにアトリエを開設、2011年までの5年間ワークショップ「緑のユトーピオ」を実施中。初の長篇舞踏劇映画『朱霊たち』を2006年に制作、2008年ポルトベロ国際映画祭(英国)でグランプリ受賞、2010年第二作「夏の家族」を完成。


『夏の家族 A Summer Family』
渋谷アップリンクXにて公開中

監督・脚本・撮影:岩名雅記
出演:吉岡由美子 若松萌野 岩名雅記 諸星すみれ(声)
音楽:平石博一
協力:フランス国オルヌ圏レベイヨン村とその住人
制作:映像舞踏研究所 白踏館(IMBB)
編集:井関北斗
2010年/日本/79分/モノクロスタンダード
公式サイト


『童は見たり』
岩名雅記監督作品
(HDテープ・35ミリ モノクロ ビスタサイズ 想定時間90分 2013年 日本)
在仏20年欧州で活動する舞踏家岩名雅記の、『朱霊たち』『夏の家族』に続く長編劇映画第三作。前2作では舞踏家としての体験とそれに伴う実験精神でインディズな藝術映画を実現したが『童は見たり』では素朴にして感動的なウェルナーの「野バラ」をテーマ音楽にしてより広範な観客を対象とした一般映画を目指す。撮影は2013年4月(東京)と8月(フランス)を予定。

脚本・監督:岩名雅記
制作:映像舞踏研究所 白踏館(IMBB)
助成対象:仏リオンアジア映画祭ASIAN CONNECTION FUND、CNC(仏中央映画庁)、日本國文化庁へ打診。

出演者、スタッフ、資金協力者、制作者を探しています。連絡くだされば企画書、あらすじ詳細、台本をメールにて送付します。ご協力ください。
想定制作予算:1000萬円。連絡先:TEL 03-3322-5564  mskiwn81@yahoo.co.jp 岩名雅記

岩名雅記舞踏・ワークショップと公演案内

舞踏ワークショップ2011
2011年1月17日(月)~21日(金)
連日16:00~21:00(遅刻可、早退可)
ワークショップ参加費 一日券 2,500円
5日通し券 10,000円
公演参加費(2公演) 2,500円

舞踏公演(ワークショップ参加者による公演+岩名雅記独舞)
2011年1月22日(土)
開場18:30 開演19:00
2011年1月23日(日)
開場14:30 開演15:00
入場料 2,500円
予約問い合わせ キッド・アイラック・アート・ホール(東京都世田谷区松原2-43-11)
TEL 03-3322-5564 arthall@kidailack.co.jp

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