骰子の眼

music

東京都 渋谷区

2012-05-19 17:06


【5・21】30年ぶりライヴを行うEP-4佐藤薫×伊東篤宏対談

「永遠に完成しない作品をどう面白く作るか」ジム・オルーク、千住宗臣、中村達也ら参加の貴重な一夜直前に活動史を語る
【5・21】30年ぶりライヴを行うEP-4佐藤薫×伊東篤宏対談
佐藤薫 photo:青木一成

約30年ぶりにフル・バンドでのライヴを5月21日に敢行するEP-4。佐藤薫以下当時のメンバーが奇跡的に集結する他、今回は新たにジム・オルーク、千住宗臣、そしてゲストとして中村達也、高井康生、恒松正敏、タバタミツルもジョイン、さらにはDJとして菊地成孔とMOODMANも花を添える今回の公演は、EP-4の首謀者である佐藤薫にとって、いや、日本の音楽シーンにとっても大きなターニング・ポイントとなるのは間違いないだろう。
そこでライヴを目前に控えて集中力を高めている佐藤薫と、自作楽器OPTRONの奏者で80年代からEP-4のファンでもある伊東篤宏との対談をお届けする。佐藤と伊東はまだ1年程度のつきあいながらも、昨年9月、EP-4のオリジナル・メンバーで現在はフランス文学者/作家として活動する鈴木創士(もちろん今回のライヴにも参加する)が原案を書いた芝居『アルトー24時』の音楽を佐藤が担当した折に、既に共演を果たした仲。EP-4の成り立ちから、約30年目の“5・21”、そしてこれから──。今、二人の会話から真実が紐解かれる。

ブラック・ミュージックそのものを作ることより、
構造的なところに興味があった(佐藤)

伊東篤宏(以下、伊東):そもそも何年頃からEP-4として活動しているんですか?

佐藤薫(以下、佐藤):EP-4以前の、音楽を制作するほうの活動としては79年くらいかなあ。それまではいわゆるプロデュース…といっても、音楽じゃなくてお店のプロデュースね。で、『クラブ・モダーン』を始めたのが80年かな。

webdice_IMG_0836
EP-4リハーサル風景 photo:岡村詩野

伊東:その頃の京都の音楽シーンってどんな感じだったんですか?

佐藤:まだクラブみたいなものは全然なかったね。僕自身もお店のプロデュースはしていたけど具体的にバンドとかはしていなかった。個人で輸入盤のレコードを仕入れてディスコに卸したりしたけどね。

伊東:当時、ブラック・ミュージックに関する知識がものすごい人が京都にいる、という噂が流れていたそうですけど、それが佐藤さんだったんですよね?(笑)

佐藤:(笑)ブラック・ミュージック、ジャズ、レゲエ、アフリカ、ファンク、ブラジルもの…そのあたりが好きだったからね。まあ、踊れる音楽だよね。とにかく、京都にはまだそういう音楽がたくさんかかるような“場”がなかったんだ。パンク/ニュー・ウェイヴの時代になっても、そういう一般的なディスコじゃかからない音楽が流れるようなクラブがなかった。アーティストがやってきてもライヴをやれるところがほとんどなかったからさ。だから、まずそういう場所を作ることから始めないとって意識が最初にあったんだよね。そもそもEP-4も『クラブ・モダーン』に集まってきた仲間で遊び半分で始めたようなものだから。

伊東:80年~81年ですね。僕はその頃高校生で、ほぼタイムリーに日本のニュー・ウェイヴは聴いていたですけど、EP-4はまだ知らなかったんです。ただ、京都に“スケーティング・ペアーズ”という奇抜なアイデアでカセットとかを出してるレーベルがあるって情報だけは先に入ってきてて。雑誌に記事が出ていたんですよ。81年頃かな、『ZIGZAG EAST』だったと思います。

佐藤:うん、81年の暮れに“アーバン・シンクロニティ”ってイベントを坂本龍一とかを招いて京都会館別館でやったんだけど、そのあたりからEP-4自体大きく変わったんだよね。メンバーも鈴木創士からバナナUGに変わって、パーカッションでユン・ツボタジが加わったし…。まあ、僕としては、音楽そのものを作ることより、先に構造的なところに興味があったんだよね。当時まで、海外の特にアメリカのブラック・ミュージックって基本的にインディペンデントな在り方で成り立っていたわけだけど、それを日本でもできないかな?っていうことだよね。その中にEP-4としての活動もあった。

▼EP-4 リハーサル映像


伊東:なるほどね。一般的には、そういうインディペンデントな活動ってパンクの人達が最初にやったってイメージですけど、それ以前のブラック・ミュージックの土壌もそうだったわけですね。

佐藤:うん。例えばラフ・トレードって元々はレコード・ショップだったわけでしょ? で、そこからレーベルをはじめるわけで。僕は70年代の頭にアメリカに渡ってブラック・ミュージックのレコード・ハンティングをしてそれを日本に持ち帰ってディスコとかに卸してたわけだけど、同じような構造だったんだと思うよ。ただ、70年代後半から80年に入ると僕自身はアメリカのブラック・ミュージックはほとんど聴かなくなっていたけど。

伊東:とすると、アフリカとか南米とかレゲエとかに移行して行った?

佐藤:そう。まだその辺の音楽が日本にレコードとしてほとんど入ってきてなかった頃だね。EP-4を始めた頃は、今で言うところのそういう“辺境音楽”を聴くようになっていたんだ。

東京と自由に活動できる場所を
オーガナイズして持つこと(佐藤)

伊東:東京や東日本にはEP-4の活動があまり情報として伝わってきてなかったんですけど、実際に拠点を東京に移したのはいつ頃のことだったんですか?

佐藤:82年の暮れから83年の春頃まで東京の日本コロムビア(当時)のスタジオで録音するんだけど(『Lingua Franca 昭和大赦』)、そういうこともあって東京にいる時間がどんどん増えていったんだよね。東京サイドのマネジメントをしてくれるところも出てきて、それで徐々に…だね。で、当時の東京もまだスタンディングでライヴが出来るところも限られていて、その場を作ることから始めた。パルコやラフォーレのフリースペースなどだね。と同時に色々なところでライヴもやり始めたね。インクスティック、ピテカントロプス…。

伊東:ツバキハウスには?

佐藤:ツバキではライヴやってないな。

伊東:その頃から感覚としてはクラブ対応だったってことですね。ただ、東京には一方でインディー・レーベルがたくさん出来てましたよね。そういう動きをどのように見ていました?

佐藤:レコード自体は誰でも作れるし出せるから、それよりも自由に活動できる場所をオーガナイズして東京と京都にそれぞれ持つことの方が僕は興味があった。ただ、もちろん東京ではペヨトル工房とかテレグラフとか横のつながりも出来てて、それは面白く感じていたね。

伊東:83年の例の“5・21”以降、EP-4の東京での活動ってわかりやすく展開していましたよね。プロデュースもたくさんやってましたし、ラジオ番組も…。とんでもない音楽がFMから流れてきてましたからね。

佐藤:まあ、そのあたりは80年代半ばにかけての仕事かな。僕としてはやっぱり足りないものを補うって感覚でやってるところがあって。『WAVE』の立ち上げにプロデューサーとして関わったのもその一環だよね。その後、ペヨトル工房が雑誌の『WAVE』を作って…。足りないものっていうのはさ、結局、情報を仕入れて外に出す行動だったんだよね。

伊東:佐藤さんのプロデュースで海外のアーティストも含めた『音の宇宙模型 SOUND COSMODEL』(84年)というオムニバスをリリースしてますよね。あれなんか、完全に外に出す行動の一つだった訳ですね。

佐藤:あれ、2年くらいかけて制作していたからね。カセットを使ったアートだよね。

伊東:ええ。海外ではありましたけど、ああいうメーリング・アートの作品としては日本で最初のアルバムだったんじゃないですかね?

佐藤:今みんなが当たり前のようにやってるような、ファイルで交換して作っていく作業の原型があのアルバムなんだよね。まあ、イギリスのインディーズ・シーンと似たようなことがやっとあの時代の日本に出来上がってきたってことじゃないかな。京都ではやりにくかったことが東京ではしやすかった、というのもあるよ。やっぱりスポンサーがつくというようなことは京都では難しかったからね。あと、本当のスタジオでインディーズの録音ができるっていうのも京都ではあまり考えられなかった。僕のプロデュース・ワークが増えたのも、やっぱり東京に移ってからだしね。

伊東:でも、佐藤さんがあの時代にやってらしたプロデュース・ワークって、インディペンデントの作品にしては今聴いてもどれも驚くほどハイ・クオリティですよね(注:昨年コンパイルされた佐藤薫プロデュース・ワーク集『MOODOOISM』などに収録)。佐藤さんって、特別エンジニア作業とかの勉強とかされてないですよね?

佐藤:うん、してない。結局、エンジニアの人とのやりとりだよね。それにはスタジオの仕組みとか音作りの仕組みがわかってないとできない。僕はそこらへんがある程度わかっていたから、それでエンジニアの人も面白がってくれたんだと思う。当時のインディー・バンドの連中って音の技術的なことがあまりわかってなかったと思うんだ。スタジオのエンジニアに任せっきりで録音してもらうような感じだったんじゃないかな。

伊東:いわゆるサウンド・プロデューサー的な役割ですよね。海外にはそういう立ち位置の人達が既に活躍してたけれど、日本にはまだ殆どいなかったんですね。

佐藤:そういう聴き方をする人がまだ日本にはほとんどいなかったってことだと思うよ。あと、バンドの方も演奏以外には目がいかなかったかもしれないし…。

伊東:好き嫌いは別として、YMOの坂本龍一さんや高橋幸宏さんの作る音ってすぐわかるんですけど、インディーにはまだその感覚があまりなかったんでしょうね。録音物に関して特別の音の色を作るって感覚。

佐藤:レコードを聴くのに単純な聴覚しか使わないとそうなるよね。でも、僕はそれでは物足りなかった。プロデュース・ワークはそういう意識で向き合っていたよ。だから、自分と似たような音を出すバンドとかには関心がなかった。むしろ、アマリリスとかタコのような音をどう仕上げるのかの方に興味があったんだよね。

ネットを使って音を作るのと、
カセットテープをやりとりする感覚は同じ(佐藤)

伊東:その後、90年代に入ると佐藤さんはシーンから姿を消してしまうわけですが、僕は90年代をクラブ・ミュージックの流れでみた時にちょっと欠落があるように感じてたんですね。

佐藤:EP-4の活動を停止した理由の一つはやっぱりそこなんだよね。正直言って、80年代の後半からはそうなっていくのが目に見えていたんだ。これからはDJの時代だな、バンドの時代じゃないなって。特にダンス・ミュージックに関してはね。80年代前半から12インチ・シングルをたくさん出したけど、全然やってることの意味がわかってもらえなかった。僕がプロデュースしたサディ・サッズとかニウバイルとか、全然クラブとかでかからなかったからね。もちろん、その後に理解してくれてた人はいたと思うよ。DJのMOODMANなんかは好んでプレイしてくれてたみたいだしさ。MOODMANは『Lingua Franca X』を4枚持ってるって言ってた(笑)。すり切れちゃったからって。結局、僕のやってたことがというか、“踊る”ってことがなかなか理解されなかったんだろうなあ。トーキング・ヘッズでさえ最初は聴く音楽だったわけでしょ? でも、僕にはそういう感覚が全然なかった。

▼EP-4 リハーサル映像#2 中村達也、恒松正敏参加


伊東:そういう意味では、あれから約30年で認識が少し変わってきたという実感ってあります?

佐藤:そりゃあ、30年も経過してれば意識も変わってくるよ。まあ、僕は90年代が丸々落ちてるし、正直わからない部分もあるんだけど、一昨年からリイシュー/アーカイブを進めてみて、ある程度その作業が一段落するまでは、やっぱり本格的に自分の音楽活動を始めようとは思えなかったんだよね。それに、EP-4の当時のメンバーが2人亡くなってるというのも、気持ちとしてはすごく大きかった。今回ライヴをするにあたってもそこに一番気を遣ったしね。

伊東:それから、僕は去年の震災と原発事故っていうのがEP-4の復活にもすごく大きな影響をもたらしたんじゃないか?って思うんですね。僕は、80年代のNO NUKESの運動があった時に、出来る事なら反原発的な思想がもっとちゃんと定着すべきだったと思うんです。残念ながらそうならなかったし、結局今回のような事故がまた起こってしまったわけで。そこへきてEP-4がライヴで復活するっていうのは…。

佐藤:EP-4の一時停止解除と反原発は関係ないと思うよ(笑)。うん、でも、だから去年、分裂というバンドの「哀愁のチェルノブイリ」という88年の曲を、発売元のテレグラフと協力してフリーでDLできるようにしてみたりしたんだよ。まあ、チェルノブイリ原発事故のあった86年の段階で、本来はそうであるべきだったのに、バブル景気に向かう波の中で、原発問題への意識がかき消されてしまったことは否めないよね。つまり、もっと拡大して言えば、広島と長崎が結局しっかり受け止められていなかったってことだよ。日本国内のことなのにね。

伊東:日本の被爆ってこれで3回目ですもんね。

佐藤:54年の第五福竜丸の事故もあるしね。僕は60年代からアーサー・ケストラーやティモシー・リアリーとかが提唱している、歴史を振り返る際の新しい暦を“ポスト広島”に置く、ということにずっと賛同してきたのね。1945年を“P.H.(ポスト・ヒロシマ)0年”にして新しい暦を作るべきだってね。それをしっかりやらなかったことが、スリー・マイルとチェルノブイリと去年の福島原発の事故につながってるんじゃないかってね。

伊東:幸いなことに、今、日本の原発は一応止まってますけど(注:この対談は2012年5月5に収録された)…。

佐藤:いろいろなものが露呈してきているのは、日本が広島をしっかり内省してこなかったことの皺寄せだよね。極端に言えばさ、311に福島で何も起きなかったらどうなっていたと思う?地震と津波による被災というところにしか問題がいかなくなる。もちろん、それも大変な問題ではあるけど、原発事故がなかったらきっと何も変わってないわけでしょ。相変わらず日本の電力エネルギーは東電に牛耳られていただろうしさ。日本は今以上のエネルギー後進国になっていただろうね。とにかく、福島がなかったらという想像力と視点は重要だと思うよ。

佐藤さんがアイドル・グループを手がけたらきっと面白い(伊東)

伊東:今が少しでも変えていくチャンスだと思うんですが。ところで、今回をきっかけに佐藤さんはEP-4を中心とした活動を再開していくのでしょうか?

佐藤:強引に結びつけないでください(笑)。いや、それはどうかなあ。ほとんど考えてないよ。全部一緒くた。その中からやれる方法を見つけるってこと。それは30年前と変わらない。でも、正直、5月21日のライヴが終わってみるまでわからないな。

webdice_IMG_0804
EP-4リハーサル風景 photo:岡村詩野

伊東:音楽ビジネスの在り方も変わってきてますからね。

佐藤:いや、基本あまり変わってないと思うんだよね。ネットを使って音を作るのと、カセットテープをやりとりする感覚は違わない。結局連鎖の中でしか物事は起こってないってことだよね。デジタル革命っていうけどさ、それは基本的には革命ではないよ。もちろん、多少は変わってきてるよね。選択肢の拡大という意味で。でも、同時に、選択可能性が自由の大きな基礎ではないということも明らかになってきた。音だけじゃないよ。出来ることがどんどん増えれば増えるほど、実際は身体も精神も拘束されるということがわかってきたしね。

伊東:でも、佐藤さん自身は音楽というスタイルにはこだわるわけですよね?

佐藤:まあ、たぶんね。僕は前から言ってるけど、音楽っていうのは進軍ラッパ。狼煙だよね。旗というかね。

伊東:ああ、なるほど音楽にはそういう要素がありますよね。

佐藤:まあ、昔から言ってることなんだけど、世界は明らかに密教化してるっていうかね、表のものと裏のものがあるという。で、それとは別に秘密のものというのがある。僕は音楽を昔からそう捉えてきたし、芸術一般そういうところがあると思うんだけど、裏=秘密と勘違いしてる人が多い。

伊東:それは日本で特にそういう傾向がありますね。

佐藤:そう。表があれば裏があるってだけの話であって、大きな秘密はまた別にあるわけで。これは別に陰謀論という意味ではなくて、まあ、アンダーグラウンドという言い方でもあるんだろうけど…裏がある、でも秘密はさらにある、ということがわかってきたってことだよね。

伊東:表がいかにダメで、裏を知ったからっていって秘密が解ったわけではない、ということですね。

佐藤:うん。視点を移すいい機会だよね。福島の一件を受けて、視点をどう進化させるかってことで。ただ、そういう考えが先にあって、それを音で表すとヘンテコなことになっちゃうから、考えないようにしてるけどね。そういうものは、放っておいてもそうなるだろうから。例えばさ、音楽の制作に関しても、最初から完成しないものが完成しないまま流通して、常に聴く人聴く人のところで一時的に完成されて消えていくというね。音楽はそうなっていく可能性がすごくある。ネットとデジタルの行く先はそういうものだと思うよ。永遠に完成しない作品をどうやって面白く作るかという。まあ、それをライヴと言うのかもしれないけど、これから先、ライヴの在り方ももっと変わってくるだろうから、融合していく可能性もあるよね。

伊東:ライヴの空間じゃないきゃダメだということはない?

佐藤:うん、それはない。例えばノイズ・ミュージックにしても、どこでどう完成されているのかわかりずらいよね。作品として成立しているのかどうかがわかりずらい。そういうものがこれだけ溢れていると、作り手としてコンセプトを立てて作りこんでいくのは面白い時代ではあると思う。僕が80年代にやっていたノイズのパフォーマンスでは、聴衆の気分が悪くなっていたわけ(笑)。でも、今では聴衆の感覚が変わってきた。ウォークマンが誕生したのが79年7月でしょ。それから人間の聴覚って変わってきたからね。

▼EP-4 リハーサル映像#3 ジム・オルーク参加


伊東:どこをどう攻めたら大丈夫なのか?の可聴範囲がわかってきましたからね。ただ、個人が各自部屋でそれを実践することと、体験として大勢の前でそれを実感することとはやっぱり違うような気がするんですよね。ライヴというより大きな空間ですね。

佐藤:それはそうだよね。あと、いわゆるメイン・ストリームで作られた音楽がもっと帯域の広いものだったら音楽シーンも今のような状況にはなっていないと思うんだ。普通の音楽…というか、中域で作られたような音楽ばっかりになっちゃってるから…。本当はポップスとされる音楽でももっといろいろ出来ることがあると思うんだよね。

伊東:そのあたりを今後佐藤さんに期待したいですね。佐藤さんがアイドル・グループとかを手がけたら面白いのに。

佐藤:やりたいけどね。だからさ、これからも、バンドだけをやっていくことはあまり考えてない。またプロデュースもやりたいし、違う形で音楽と関わっていきたい…でも、まあ、色々考えるのは5・21が終わってからだな(笑)。とにかく今はそれを片づけておかなくちゃ。

伊東:今回のライヴ、たくさんのメンバーが関わってますからね。ライヴ、楽しみにしてます。

(構成:岡村詩野)



EP-4「5・21」
2012年5月21日(月)
代官山UNIT

開場18:00/開演19:00
料金:前売4,500円(ドリンク代別)
※チケット購入者の方には当日入場時に
未発表トラック入りスペシャルCDをもれなくプレゼント

出演:
佐藤薫(ヴォイス、エフェクト他)
BANANA UG(Key)
佐久間コウ(B)
ユン・ツボタジ(Perc)
鈴木創士(Key)
ジム・オルーク(G)
千住宗臣(Dr)
高井康生(G)
中村達也(Drs)
恒松正敏(G)
タバタミツル(G)

Guest DJ:菊地成孔/MOODMAN

http://smash-jpn.com/band/2012/05_ep4/index.php




■リリース情報

EP-4『リ・ン・ガ・フ・ラ・ン・カ DELUXE』
(Lingua Franca -An Edition Deluxe-)

発売中
SUPER FUJI DISCS
4,515円(税込)
FJSP131/132




Atsuhiro Ito『Midnight Pharmacist』

発売中
BLACK SMOKER
1,890円(税込)
BSJ-005


★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。
Amazonにリンクされています。


レビュー(0)


コメント(0)