骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2013-01-25 20:00


そこに差別があったから、水俣病も原発もやってきた

ドキュメンタリー『阿賀に生きる』ニュープリント版全国上映中、カメラマン小林茂さんに聞く
そこに差別があったから、水俣病も原発もやってきた
撮影手法の転機になった自身の写真集を見る、映画『阿賀に生きる』のカメラマン小林茂さん

ドキュメンタリー映画としては、日本で初めてロードショー公開を実現し、国内外のドキュメンタリー映画の最高賞を総なめにした『阿賀に生きる』(1992年)。新潟・阿賀野川流域で、川と共に暮らした3組の老夫婦の日常生活を追いながらも、新潟水俣病という企業公害によって失われたものを丁寧に浮き彫りにした本作。“この作品を21世紀に残したい”と言う多くの支援者や賛同が集まり、昨年末、16ミリフィルムのニュープリント版が作られ、リバイバル上映が始まった。

映画制作経験の浅い7人の若いスタッフが、現地の“阿賀の家”に3年間住み込んで、農作業を手伝ったり、シンポジウムやラッシュ上映会を開きながら撮影を続けた、その手法。また、製作委員会を立ち上げ、インターネットがない時代に、国内中からカンパや上映支援や協力を集めた独自の製作方式。そして公開から20年以上たった今、映画のデジタル化が進み、フィルム上映ができる劇場も減るなか、16ミリフィルムのニュープリント版のリバイバル上映を果たした。作品の内容もさることながら、製作から上映まで、型破りな映画づくりから教えられることは、今もまだ、あまりに大きい。

カメラマンの小林茂さんに話を聞くため、新潟県長岡市に向かうと、ご自宅に招いてくださり、郷土料理であるのっぺい汁をいただきながらのインタビューになった。

その小林さんに開口一番、こう言われた。「これは小林茂という僕のインタビューだとしても、鈴木さん(筆者)が、あのニュープリント版をどう観たかが大切なんです」と。そして、まず作品を観た自分の感想を述べるという、極めて私的な切り口からインタビューを始めさせてもらった。

企業と政府と御用学者
その結託は今も変わらない

──改めてニュープリント版を劇場で拝見して、私たちはいかに歴史から学んでいないかを痛感しました。足尾鉱毒事件、水俣病、3.11と続いて、その被害はますます甚大になっています。そういう意味で、『阿賀に生きる』のリバイバル上映は意味深いと思いました。特に“企業公害被害の描き方”の手法は今観ても斬新で、公害の被害をどう伝えていくべきか、何を伝えていくべきか、考えさせられました。

核心の部分ですね。足尾鉱毒事件の構造と、水俣病の構造、そして今の原発の構造は、社会の構造も問題の構造も、まったく一緒で変わっていないということだよね。そこには、明治以降、国が目指した“富国強兵”というベクトルが変わっていないということ。明治以降、列強に屈しないように、植民地化されないために、富国強兵を掲げた。それが歴史上正しいか正しくなかったかということはわからないけれども、そういう方向を目指したということです。

例えば、足尾鉱毒事件が発覚した時、農民のために、足尾を閉山する、もしくは企業や工場に強い規制をかけるということが出来ていればと思いますが、企業と政府は一体でした。水俣では、チッソの社長が「ここにサーキュレーター(浄水所)を作りましたからもう大丈夫です」と言って、浄水所を通じた水を飲んでみせるという、ごまかしのパフォーマンスを行って、国民に工場は危なくないとアピールした。でもその排水の水は、そこ(浄水所)を、通っていなかった。九州の水俣も、新潟の水俣もそう。御用学者が登場します。新潟水俣病のときには「新潟地震の時に、倉庫の農薬が散乱してそれが原因だ」とか言ったんです。御用学者、企業、政府は、常に結託している。そのトライアングルが変わらない限りは、何も変わりません。

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映画『阿賀に生きる』より ©阿賀に生きる製作委員会

──国の価値観が“富国強兵”から、未だ変わっていないということですね。

「列強と肩を並べるために」というのが、国の第一の価値観であった訳です。

そのためには、少々のことには目をつぶるということになってしまう。その皺寄せを引き受けた最たる人たちが、公害の被害者だったり、薬害の被害者で、その中には被差別部落の人たちや、いわゆる“マイノリティ”と呼ばれる人たちがいます。

でも、こうした人たちは、大多数の国民には関係がない“少人数”だという幻想を国民は持たされる訳です。政府に言わせれば、「少人数の国民に被害を被らせてしまったが、大多数の国民を食わせて良い暮らしをさせているのだから仕方がないだろう?」と言うこと。でも、そういう少数の彼らが、ある種きちんとした復権をしない限り、国民全体の暮らしは決して良くならない。つまり、この人たちに学んで、自分たちの文明文化をあらためて作って行く、ということをしないと。

そういう意味で言うと、僕たちは、江戸時代は、士農工商と封建制と国民の年貢取り立てと、江戸時代の幕府の変遷とそれぞれの改革っていうことくらいしか学校で学んでない訳だけど、一番学んでいないのは、“農民の自治”ということです。武家社会と一線を画したところで、自治社会が行われていた。でもそれを、今になっても学んでいないということだと思います。

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映画『阿賀に生きる』の発起人で、水俣病未認定患者の会事務局長の旗野秀人さん(左) ©阿賀に生きる製作委員会

障害や、公害被害など
目に映らないものを撮る

──そうした自治社会や文化そのものを撮り、いかにそれが企業公害により失われたかを浮き彫りにさせたのが『阿賀に生きる』だったのではないかと思います。その撮り方は、その被害は決して“少数派の特殊ケース”ではなく、誰もが平穏な日常を失ってしまう可能性があったのだと感じさせます。それは、社会問題を告発するドキュメンタリー作品が陥りがちなパラドックスの転換に成功していると思うのですが、この手法を取られた経緯から、教えていただけますか。

まず、映画作りの発起人である旗野秀人さんという人の存在が大きかったと思います。『阿賀に生きる』は、旗野さんの映画と言っても過言ではないんですよ。水俣病の被害者を撮るとなると、それには、患者らしく振る舞ってもらわなくてはいけないということがあります。被害を報道して、裁判で勝つ為には、“被害者である”ということを強調する必要も出てきます。でもそうすると、旗野さんや僕たちが、阿賀の人たちに対して抱いている、偉大なる尊敬の部分を、何か、どこかへ置いてこないといけなかった。それは出来なかったんだよね。

例えば、水俣病の苦しみを持ちながら、毎日民謡を歌って元気に生きている姿のカットがありますが、それは水俣病撲滅の運動家や報道側から見ると、ちょっと困る訳だ(笑)撮影する時に、元気にされちゃうと、被害者っぽく映りませんからね(笑)でもそこで被害を強調する描き方に、旗野さんは矛盾を感じていたんです。そうした考えを持つ旗野さんが映画を撮りたいと言い始めたことが、大きかったですね。だって、人は、裁判や社会問題のためだけに生きているんじゃないんだよ。

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『グラフィック・ドキュメント・スモン』(日本評論社・共著)より、小林茂氏提供

僕自身の話をしますと、『阿賀に生きる』の前に、スチールのカメラマンとして、薬害スモンの被害者を撮った『グラフィック・ドキュメント・スモン』(日本評論社・共著)という写真集を出しています。この写真集を作った時に、被写体の方に教えられたことが大きかったんです。

はじめは、“障害をどう撮るか”というところにフォーカスしてしまうじゃない?でも、基本的に、障害も公害被害も写真には写らないものである、と悟ったんだよね。それは撮影中に、サリドマイド被害の青年に「小林さんは、障害を誇張して撮っているでしょう?」と言われた、その一言に、大きな衝撃を受けたんです。自分の撮りたいもの、そのゴールをあらかじめ設定して、その目的に合わせた写真を撮ろうとしていたかもしれないって。

スモンで全盲になって車いす生活になった一人の女性を撮りました。その人は自分の娘を兄弟に預けて離婚をして、中野にある印刷工場で働いて、工場の2階の寮で住んでいたんですね。カーテンで仕切られた三畳くらいの場所でした。僕はそれを見た時に、「薬害スモンがこの人を、こんなに小さなプライベートもない空間に押し込んだのだ」と怒りが沸いてきたんですね。だから、なるべく部屋の狭さを強調して撮ろうとして、取材に通ったんだよね。でも、その人は、だんだん体がしんどくなって、仕事を続けられなくなり、寮を出て行かなくてはいけなくなった。社員の寮でしたから。

でも、その部屋を手放す時、こんなに小さい部屋でも、この空間は、彼女が努力して勝ち取ったものだったんだ、とわかったんです。狭いけれども、ラジオがあり、小さい冷蔵庫があり、茶道具があって、彼女の小さなお城だったんです。その時、始めに、彼女を不憫に思って、いかに部屋を狭く撮ろうかと思っていたカメラマンとしての自分が、すごく恥ずかしくなったんです。自分自身の見方がいかに偏っていたかを知った。

そもそも、全盲の人を撮るって何だ?って話なんですよ。その人が全盲であるということは、写真には映りません。でも、人は生きる誇りを持っている。障害を持ったことで、その誇りも日常生活も、一気に粉砕されてしまう。場合によっては、家族も失ってしまう。でもその後、もう一度をそれを築き上げようとする。人生の目的がないと、人は生きてはいけないから。そこで新しく築き上げた、その人らしい瞬間をカメラにおさめようと決めたんだ。だから、『阿賀に生きる』は、そういう風に撮ろうって決めたんだよ。

監督の佐藤真さんや旗野さんは、僕のもうひとつの写真集『ぱんぱかぱん』を観て、そういう僕に映画を撮らないかと声をかけてくれた、という経緯がありました。

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船づくりをする遠藤さん ©阿賀に生きる製作委員会

“水俣病を撮る”ことを
最終目標にしなかった

──もともと公害被害をフォーカスするより、公害によって失われた日常を撮ろうという意識を持った旗野さんのもと、集ったメンバーだったのですね。そうは言っても、3年間にも及ぶ撮影期間の中で、どうやって初志貫徹できたのか。また、スタッフ内での不安や方向性の違いはどのように解消されてきたのでしょうか。

もちろん、スタッフ全員が、すぐにその点で団結するという訳にはいかないよ。

例えば、餅をつくシーンがあります。加藤のじいちゃんが村の人たちから頼まれて、毎年大晦日に餅つきをするという話を聞いて、僕はそれを撮ろうと狙って、秋から密かに準備をしていたんです。キャメラが平行に動けるように、秋からスクワットをして足腰鍛えたりしてね。ただ、それを撮ろうとみんなに話したのは1週間前だった訳だけれども。でも、話をしたら、「水俣病を撮っているのに、どうして餅つきなんだ?」と言われて、スタッフの賛同は得られなかった。フィルムで撮っているから、10分回せば5万円くらいのお金がすぐ飛んでしまうので、今みたいに、そう簡単に撮影できないんだよね。僕も上手く言葉で説得できなかったから、最後は「俺はこれをどうしても撮るんだ!」って押し切った。スタッフの中では年長でもあるし、キャメラマンでもあるから、啖呵を切った訳だ(笑)でも、その撮れたものを見たときに、やっと納得してもらえた。餅つきは、加藤のじいちゃんの晴れ舞台で、それを日常の記録として残せたし、餅つきの一連の流れの中で、妻のキソさんの手が震えているという、水俣病の症状も残すことができた。「水俣病になっても、何十年も続けて来た行事で、村中の人に頼まれて餅をついてきた加藤のじいちゃんの姿を撮らずしてどうする」って思ったんですよ。まあ、スタッフは上手く説得できなかったけど。

それで、寝てたキソさんがいろり端に来るのは昼しかないから、いろりを挟んでカメラを構えて待っていた。そうしたら案の定、加藤のじいちゃんがつきたての餅を食べろ食べろって僕に勧めて来た。僕は餅が大好きだけど、こっちはカメラを構えていて食べてる暇はない。佐藤さんも「餅を食べろ」っていうけど、監督の仕事だろって、つっぱねた。そうしたら、加藤のじいちゃんがふっと変わった感じがしたね。「お前にはお前の仕事があるんだな」って認められた感じがしましたね。

でもそういうシーンが撮れたのも、旗野さんのおかげなんだよね。旗野さんは加藤さんと、自分のおじいちゃんのような関係を築いていた訳だから。船大工の遠藤さんも同じ。そういう信頼関係のベースがあったということ。そうでなければ、急に取材や撮影に行って、今日明日の関係で、あそこまでの日常の風景は撮れなかったと思います。その旗野さんとの関係があった上で、その上に、我々スタッフのつきあいや関係を築けたということ。阿賀の家に住み込んで、村の人たちの田植えを手伝ったりしながら。

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お茶を煎れる遠藤さん(撮影:村井勇)

──佐藤監督と小林さんは、たびたび意見の衝突があったようですが、どのような方向性の違いがあったのですか。佐藤監督が他界されているので、お話しにくいかもしれませんが……。

僕は、なるべく日常生活を撮りつつ、そこから浮き彫りにするものを撮りたかった。例えば、水俣病で足の感覚がなくなった遠藤さんが、風呂場で足に火傷をしてしまった。それで火傷の肉片をぶら下げて歩いていて、奥さんに「何をぶら下げて歩いてんだ?」と言われていたことがある。でも、そういう様子を撮ったり、「火傷の症状を見せてください」とか、“病気の苦しみ”みたいなことは絶対に聞かないって決めてたんです。『スモン』の件があったからね。

佐藤さんだって、茶の間でインタビューするような映画にしようとは思っていなかったけど、“問わず語り”のような映画をイメージしていたんだよね。佐藤さんは、小川紳介監督の『三里塚 辺田部落』が好きで、目標にしていたようでした。農作業を手伝いながらも、佐藤さんが質問を投げかけるというスタイルで最初は撮っていました。「昭和電工は、このあたりに残滓を捨てたんですよね?」と言うような質問です。そうした部分は映画にも少し残っていますが。

──冒頭で、佐藤監督が長谷川さんに「この辺りも昔は鮭が獲れたんでしょう?」と尋ねるシーンですか?

そうですね。でもだんだん、例えば加藤さんの餅つきのシーンなど、こちらが話を割って入るのではなく、そこにカメラはあるけれども、目の前に家族の日常生活が展開していくようなシーンが撮れるようになったんです。その時、僕はそういう部分を伸ばそうと思いました。佐藤さんも手ごたえを感じたと思いますが、その後も、佐藤さんが質問を挟むという形は続きました。いろんな歴史を、明確な言葉で残したいという思いがあったと思います。その辺りは、お互いにすりあわせながら撮影をしていました。でも、だんだん、被写体がカメラを意識せずに、日常の自然な振る舞いをしているシーンが撮れるようになってくると、佐藤さんが途中で割って入って来てインタビューを始めると、その空間が崩れてしまうと感じるようになって、それは違うんじゃないかと。「佐藤さん、そんなにゲンナマを欲しがるなよ」とはよく言いましたね。

──ゲンナマというのは、水俣病被害に関する言質ですか?

そうですね。やっぱり監督は全責任を負う訳ですから、川の文化や公害という歴史を明確な言葉で残したかったのだと思います。でも佐藤さんは、撮影中に自分が話始めたら、僕が喜ばないとわかってきたので、途中からは、“キャメラマンが熱中して撮るようなシーンを設定することが、監督としての演出である”という方向に考えが変わったと思います。

──どのあたりからですか?

後半ですね。船づくりのあたりですね。船大工の遠藤さんが水俣病になって船づくりを止めて、それを再開するシーンです。やはり職人さんですから、なかなか撮影の許可は降りなかった。でも、船づくりが終盤に差し掛かって、旗野さんを通じて、ようやく撮影が許されて撮りに行くと、遠藤さんの表情がまったく変わって、生き生きとしている。それを撮っている時に、もしも佐藤さんが「遠藤さん、久しぶりに船を作って、どんな気分ですか?」なんて聞くとせっかくの表情や画を壊してしまう。そんなインタビューはしなくてもいいと、お互いに暗黙の了解が出来ていました。

僕にとって最も大事なことなのは、その人が生き生きとした瞬間を撮ってあげることだと思っていたし、最終的に新潟水俣病をの被害だけを描くところに目標を置かないとしていたから、その変化は、嬉しかったですね。

僕には、教科書みたいに何度も読んで、撮影に挑んだ文章があるんです。旗野さんらがまとめた、地元の人たちの聞き書きで、新日本文学に載った「阿賀の岸辺にて」という文章です。旗野さんは「じつはこれは新潟水俣病という言葉がでてこない新潟水俣病問題の特集号?なのであります」と書いています。特に、「川も魚も都合あっから」というような言葉ですね。映画に置き換えると、被写体には被写体の都合があるんだ、ということです。ドキュメンタリー映画の被害者として描きたいと思っても、その人たちには、その人たちの、それぞれの日常生活と人生がある、ということ。

──「川も魚も都合がある」、この言葉は、映画を作る人だけじゃなくて、国を作る政治家やすべての人にもあてはまるのかもしれませんね。

そう、原発を作ってエネルギーや雇用を生むと言っても、廃棄物だって出るし、地震だって来るし。そこにある川や魚や、住人の事情があるはず。だから、逆に言うと、差別があるから原発が来たんだよ。水俣病も、差別があったからこそ、工場が来た。そういう人たちが、こういう病がでた、それは奇病で伝染病である、と言われて封じ込まされた。そこで被害を受けた人の生活を切り離して、病気のことだけをフォーカスしたら、原田正純先生のような、被害者と生活をともにした医師の活動は生まれなかったと思いますね。足尾鉱毒事件の田中正造も、自分の考えや思想、価値観をひっくり返しました。

それまで被害を受けた方を弱い人間たちと見ていたけれど、そうではないと。彼らの生き方、生活の仕方、文明に学んで行かなくてはいけないと考え直すんだよ。

ドキュメンタリーには、そうして、作り手側が価値の転換に出会うということが、大切なのだと思います。

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農作業を手伝いながら撮影をするスタッフ(撮影:村井勇)

撮影だけじゃなく何でもやった
フィルムの時代だったから

──ドキュメンタリー映画の手法として、現地に住み込みで撮影するスタイルが、小川プロダクションと似ているとよく言われますが、『阿賀に生きる』は製作委員会方式で撮られているんですよね。

 

佐藤さんははじめ、「自分が借金をして作る」と言ったけど、僕は反対しました。大きな借金をしたら、心理的にも時間的にも猶予も何もない。住み込みなので、スタッフのご飯から何から“佐藤さんのお金で食わせてもらっている”となると、絶対に上手くいかないと思っていた。それこそ撮影に関して、意見だって言えなくなるし。製作委員会を立ち上げないといけないと、と思ったんです。

そうするとスタッフだけではない、別の組織が出来る訳です。もともとの素地は、旗野さんという水俣病未認定患者の会事務局長という活動家がいた訳だけど、新潟大学の先生である大熊孝先生を製作委員会の代表になってもらったことで、支援者もより集りました。88年4月には、撮影スタッフの拠点『阿賀の家』をオープンして、そこで毎月何かしらイベントをしながら、製作を盛り上げて行った。そして、89年にクランクインしました。

撮影したラッシュを見せるラッシュ上映会を開いて、地元の人や製作委員会に撮影の様子や進捗を報告したり、新潟水俣病についてどう考えていったらいいのかというシンポジウムを開催したり、「阿賀に生きる製作ニュース」を発行したり、撮影スタッフは撮影だけではなく、同時にいろいろなことをしましたね。新潟水俣病の研究からは「AGA草子」シリーズも生まれました。

スタッフが撮影で煮詰まったら、製作委員会のミーティングでそれを明らかにして、その場で考えたり励まされたりしました。阿賀の家も解放して、何百人も集ったり、泊まって行ったりしてくれたので、そういう意味では、“みんなで作った映画”という意識は高まったと思います。

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佐藤真監督と小林茂さん(撮影:村井勇)©阿賀に生きる製作委員会

──その作業量を考えるとものすごく大変そうですが、撮影、制作進行そのものをオープンに、開かれたものにした意味は大きいと思います。ただ、製作委員会を立ち上げ、カンパをいただくと、批判やご意見も出て来ると思います。どう対応されたのですか。

 

製作委員会やシンポジウムで、なるべく論議をオープンにして、みんなで話し合いましたし、最終的に撮ったラッシュを見せたら、納得してくれましたね。

佐藤監督には、“ただ日常を撮った映画になっていないか”という不安はあったと思いますが、最後の編集段階になって、「“新潟水俣病にとらわれない映画を作る”と言っていたけれど、かなり水俣病の映画になっている」という逆の意見が製作委員会から出たので、それを聞いて、構成を大きく変えたりもしました。新潟水俣病の現場や裁判に行くシーンなどは前半にまとめて、後半の方は、遠藤さんの舟づくりや、長谷川さんの鮭のカギ漁のシーンなどが中心になりました。

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映画『阿賀に生きる』より ©阿賀に生きる製作委員会

──小林さんと佐藤監督の論争を公にしたシンポジウムも、その一貫だったのでしょうか。

シンポジウムを開いた時には、本当の目的は資金集めだったんですよ。当時、新潟日報に月1回、“阿賀の家から”というコラムを書かせてもらっていたんです。ですから“阿賀の家”で若者が映画を作っているというのは、新潟県内では知られるようになっていました。撮影も中盤に入った頃、資金的にも苦しくなって、佐藤さんと僕の間では、撮影をめぐって論争もあって、これは内情をさらけ出すシンポジウムを開こうということになりまして、付けた名前が『正念場シンポジウム』。

新潟日報の記者に司会をしてもらって、応援してくれた京大の先生とか、製作委員会の代表の大熊先生とか、いろいろな方に集まってもらいました。

僕も佐藤さんも出席して、ラッシュの一部を上映しまして、「今、監督の佐藤とキャメラマンの小林がこんな論争をしてますが、みなさんどう思いますか?」って聞いたりして。僕は「撮影中に、佐藤さんに“質問”という形で割って入られると、せっかく撮れていた日常空間の空気感が壊れる」と言えば、佐藤さんは佐藤さんで、「僕は、“問わず語り”に持って行きたいんです」というようなことを言う。そして、資金が底をついていることも明かして、完成までもう少し応援してくださいと。ただ資金を下さいというのではなく、スタッフ間の論争をオープンにして、それは、まあ演出もあったんですけど(笑)最終的な目的はカンパなので(笑)。お客さんは百人くらい来たし、シンポジウムの様子をまた記事にしてもらったりしたので、お金も結構集りましたね。

その他、新潟市内や東京、静岡、京都などでもラッシュを30分から1時間くらいの映画にして公開し、カンパを募ったりもしました。

──普通は嫌がりますよね、ラッシュを見せるのは。

そうですね、嫌がりますね。でも被写体である地元の人もカンパしてくれた人も、製作の進捗がわかるので、安心してもらえるし、僕の恩師の柳澤壽男監督は、ラッシュを被写体の人と共有するという考え方だったんです。

撮影中には、映画の上映会も多く開催しました。新潟・市民映画館シネ・ウィンドを借り切って、『福祉を考える1週間』と題して、柳沢監督の特集上映会を開催して、監督を呼んだりしましたし。佐藤監督は、シネ・ウインドの土曜日の夜、オールナイトで代表的な世界のドキュメンタリー映画を上映して、市民の皆さんに見せたりしていましたね。ロバート・フラハティの『極北の怪異 ナヌーク』とか、いろいろなものを用意して。佐藤さんは、『阿賀を生きる』を作る準備段階から、ドキュメンタリー映画を観て、勉強する集まりをやっていたので、たくさんの作品を持って現地入りしたほどです。

僕たちは、自分たちのラッシュ上映会はやるし、他の監督の作品上映会もしました。同時に、映画や公害について勉強もしたし、いろんなことを同時に一生懸命やってきたので、今から思えば、あっという間の3年間でしたね。まあ、若かったし、面白かったし、一人じゃなくて、仲間も一杯いたからね。何もない時は、温泉に行ったりしましたし。とにかく、すぐにカメラを回してみようか、とはいかない訳ですよ。いったんカメラを回せば、すぐに何万円も吹っ飛ぶわけですから。

──デジタルで簡単に撮れる今の時代とは違ったがゆえの制作手法だったんですね。そして、映画制作だけではなく、いろいろな活動を行うことによって、『阿賀に生きる』は、映画づくりはもちろん、コミュニティが生まれたということなのですね。

『阿賀に生きる』は、新潟県内の市民活動をしている人たちのネットワークになっていったんだと思います。例えば、『阿賀に生きる』を応援してくれた活動家の中には、東北電力の巻原発建設問題にも興味を持った方は多かったですし、今後も、直接的ではないにせよ、さまざまな形で活きてくると思います。

新潟県には112市町村あったのですが、ほとんどの市町村からカンパを頂きました。映画ができて完成した時には、映画を持って1年かけて県内をまわるわけですけど、主だった市とか町とかほとんど上映会に行きました。その町や村にカンパを頂いている人がいるから上映出来る訳です。

映画の完成後も、旗野さんの実家がある安田(現阿賀野市)で、毎年5月4日に開催する『阿賀に生きる追悼上映会』が20年間続いています。映画が完成後、登場する人たちが次々と亡くなったので、本当の意味での追悼上映会ですね。鳥取や大阪など、全国から来た人たちが、百人くらい集って交流会を開きます。だから、ちょっとおもしろい現象ですよね。

──そうした背景やコミュニティがあったことが、ニュープリント上映につながった訳ですね。

ニュープリントは本当に驚きました。やらなきゃいけないとは思っていましたが、それに加えて、劇場でリバイバル上映ができるなんて!

カンパは、主に20年前に応援してくれた人たちによって集って、その呼びかけ人の中に太秦(今回のニュープリント版配給会社)の小林三四郎さんがいて、公開につながりました。

20年前に比べて、地方の単館が増えましたから、いい映写状況で観てもらえるのは嬉しいですね。渋谷のユーロスペースには若い人たちがたくさん観に来てくれて、さまざまな感想をいただいて、作品が古くなってないんだということもわかって嬉しかったです。

(インタビュー・文:鈴木沓子)



小林茂 プロフィール

1954年新潟県生まれ。「阿賀に生きる」の撮影により日本映画撮影監督協会第1回JSC賞受賞。監督作品に札幌の学童保育所を舞台にした「こどものそら」、重度障がい者の自立生活を描いた「ちょっと青空」、びわこ学園を舞台に重症心身障がい者の心象を描いた「わたしの季節」(毎日映画コンクール記録文化映画賞、文化庁映画大賞、山路ふみ子福祉映画賞)、アフリカのストリートチルドレンの思春期を描いた「チョコラ!」を公開。現在、人工透析をしながら新潟県の豪雪地帯を舞台に「風の波紋」を撮影中。




映画『阿賀に生きる』
渋谷ユーロスペースにて上映中、
1月26日(土)より第七藝術劇場にて上映、
他全国順次公開

監督:佐藤真
撮影:小林茂
録音:鈴木彰二
撮影助手:山崎修
録音助手:石田芳英
助監督:熊倉克久
スチール:村井勇
音楽:経麻朗
整音:久保田幸雄
録音協力:菊池信之
ナレーター:鈴木彰二
題字:小山一則
ネガ編集:高橋辰雄
製作:阿賀に生きる製作委員会
提供:カサマフィルム
協賛:シグロ
配給・宣伝:太秦
配給協力:コミュニティシネマセンター
1992年/日本/115分/カラー/16ミリ/スタンダードサイズ/モノラル
公式サイト:http://www.kasamafilm.com/aga

イベント情報

渋谷ユーロスペース
1月26日(土)舞台挨拶
ゲスト:旗野秀人さん(『阿賀に生きる』製作発起人)

第七藝術劇場
2月3日(日)舞台挨拶
ゲスト:小林茂さん(予定)

▼『阿賀に生きる』予告編

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