骰子の眼

cinema

2014-02-14 10:20


言語をほどき紡ぎなおす者たち───海外文学界の第一線で活躍する翻訳家9名の仕事場を訪ねて vol.2 <野谷文昭/松永美穂/飯塚容>
映画『ドストエフスキーと愛に生きる』より

ドストエフスキーの新訳でドイツ文学界に旋風を起こした女性翻訳家の数奇な半生を追ったドキュメンタリー映画『ドストエフスキーと愛に生きる』が、2月22日(土)から公開となる。翻訳家を題材とした本作の公開にちなみ、日本で活躍する文芸翻訳家9名に「翻訳」という営為の魅力について訊ね、仕事風景を捉えた連載の第二回。

第一回の柴田元幸さん(アメリカ文学研究者・翻訳者)、きむふなさん(日本・韓国文学翻訳家)、野崎歓さん(フランス文学者・翻訳家)に続き、今回は、野谷文昭さん(東京大学名誉教授・ラテンアメリカ文学翻訳家)、松永美穂さん(早稲田大学教授・ドイツ文学翻訳家)、飯塚容さん(中央大学教授・中国文学翻訳家)が登場。

また、次回(第三回)は、和田忠彦さん(東京外国語大学教授・イタリア文学翻訳家)、鴻巣友季子さん(翻訳家・エッセイスト)、沼野充義さん(東京大学教授・スラヴ文学者)が登場する予定だ。


[撮影/荒牧耕司 http://kojiaramaki.com
[取材・構成/隅井直子]




ラテンアメリカ文学
野谷文昭

のや・ふみあき 1948年生まれ。東京外国語大学大学院修了。東京大学名誉教授。ガルシア=マルケス、バルガス=リョサ、プイグら、現代ラテンアメリカ文学を代表する作家の翻訳で知られる。また、『予告された殺人の記録』(F・ロージ監督)や、ブニュエル『昇天峠』『エル』等の映画字幕翻訳も手がける。著書に『越境するラテンアメリカ』(PARCO出版/1989年)、『ラテンにキスせよ』(自由国民社/1994年)、『マジカル・ラテン・ミステリー・ツアー』(五柳書院/2003年)がある。

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ブックカフェ「キャッツ・クレイドル」(新宿区早稲田)にて

Q.翻訳の仕事を始めたいきさつ

もともとラテン系の言語の響きが好きで、大学ではスペイン語学科に進みましたが、ちょうど大学紛争の時期で授業はほとんど受けられないような状況でした。卒論を書くのも手探りで、題材を探しに図書館へ行ったとき、たまたま見つけたのがラテンアメリカの小説でした。フランコ政権下で文化が停滞していたスペインよりも、六七年にゲバラが死に、社会が大きく動いていたラテンアメリカに興味を惹かれました。ただ、当時はまだラテンアメリカ文学専門の先生が一人もいなかったので、ラテンアメリカの歴史の先生に頼み込んで指導教官になってもらいました。大学院の頃に『百年の孤独』をはじめ、新しいラテンアメリカ文学が紹介されるようになり、それまでも一人でネルーダなどの詩を訳し出していたのですが、バルガス=リョサやシャルボニエの下訳が認められて、翻訳の仕事が来るようになりました。

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Q.「翻訳」という営為の魅力はなにか

一つは原文を深く読み込めること。もう一つは、文体を自分で決定しなければならないので、限りなく創作者に近くなれることです。自分でなにかを書く時とは違う情動を経験するので、未知の自分の発見にもなります。また、たとえばボルヘスのように博識な作家の場合、原書を通じて、さまざまな本と出会えるのも大きな魅力です。

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Q.翻訳家を目指す人へのアドバイス

まず、言葉に敏感になり、適切な言葉を選ぶことが大切です。使えそうな言葉は二つ三つと候補があったとしても、使える言葉は一つに絞られると思うのです。たった一言によって作品の雰囲気すら変わってしまうわけで、翻訳者は原文に対する責任があります。それと、翻訳で絶対に必要なのは文体のリズムです。リズムが悪いと読みづらいものになってしまう。どの作品にも必ず固有のリズムがあるので、それを感じ取って、原文と共振するようなリズムを作れれば、流れのいい訳文になると思います。

Q.現在、進めている翻訳または著作

グイラルデス『ドン・セグンド・ソンブラ』、ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』、バルガス=リョサ『ケルト人の夢』、セルバンテス『ドン・キホーテ』です。

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野谷文昭さんから『ドストエフスキーと愛に生きる』に寄せられたコメント
過去と現在の間を行きつ戻りつしながら、ひとりの翻訳家の波乱に満ちた人生が淡々と描かれる。スターリンとヒトラーに翻弄されながらもたくましく生き抜いてきた彼女にとり、言葉は究極の本質への憧れを形にしてくれるものだ。翻訳という作業を通して未知のものが見えるという寸言に共感を覚える。




ドイツ文学
松永美穂

まつなが・みほ 1958年生まれ。東京大学独文科卒大学院修士課程修了。フェリス女学院大学国際交流学部助教授を経て、早稲田大学文学学術院教授。ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社/2003年)で毎日出版文化賞特別賞受賞。文芸翻訳のほかに、ゼバスティア・メッシェンモーザー『リスと青い星からのおきゃくさん』(コンセル/2012年)など児童文学の翻訳も手がける。著書に『ドイツ北方紀行』(NTT出版/1997年)、『誤解でございます』(清流出版/2010年)がある。

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早稲田大学文学学術院・研究室にて

Q.翻訳の仕事を始めたいきさつ

昔から外国文学を読むのが好きで、ロシア文学とドイツ文学のどちらかで迷いましたが、大学ではドイツ語を選択しました。最初に翻訳したのは、ハンブルク大学留学中に大変お世話になった指導教授のインゲ・シュテファンさんによる『才女の運命──有名な男たちの陰で』(あむすく/1995年)という本です。女性の評伝なのですが、ぜひ日本で紹介したいと思い、自分で出版社に持ち込みました。その後、少しずつお話をいただくようになり、また自分で持ち込んだりして、翻訳の仕事が増えていきました。

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Q.「翻訳」という営為の魅力はなにか

新しい小説だと自分が第一読者になれるというのが楽しいですし、映画の中でスヴェトラーナさんも言っていますが、かつて訳されたことのある作品でも、何度も読むことによって新しい発見があります。また、著者と知り合いの場合には、翻訳作業中に対話しているような楽しさがあります。

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Q.翻訳家を目指す人へのアドバイス

良い本に出会うことだと思います。語学の勉強はもちろん大切ですが、ただ漠然と翻訳家になりたいと思っていても、たなぼた式に仕事がやってくることは、まずありません。まだ日本語に翻訳されていない原著をたくさん読んで、「この本をどうしても日本で紹介したい」という情熱を抱けるような作品を発掘する能力が大切ではないでしょうか。

Q.現在、進めている翻訳または著作

もうじき光文社から出る予定の本が、リルケの『マルテの手記』の新訳です。これがとても難しくて、今、三回目の校正が終わったところですが、四回目も行なうことになりそうです。ほかにスタンバイしているのは、シリア出身のドイツ語作家ラフィク・シャミの作品と、私が自分でやりたくて出版社に持ち込んだ、シェートリッヒという作家の小説です。それと、日本聖書協会の聖書の改訂を一部お手伝いしています。ドイツ語や英語と比較して、日本語の訳文がどうなっているかを見るのが私の担当です。

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松永美穂さんから『ドストエフスキーと愛に生きる』に寄せられたコメント
スターリンの粛清で父親を喪った主人公が、自分に奨学金を与え、生きる道を備えてくれたドイツに対して行った「恩返し」。それがドストエフスキーの長編小説の翻訳であった、ということに驚いた。 時間を惜しみ、一つ一つのものを慈しむ彼女の生活ぶりと、共同作業としての翻訳が実に興味深い。




中国文学
飯塚 容

いいづか・ゆとり 1954年生まれ。東京都立大学大学院修了。現在、中央大学文学部教授。専門分野は中国近現代文学および演劇。中国で「先鋒派」と呼ばれ多くの読者を得てきた余華(ユイ・ホア)や蘇童(スー・トン)、代表的な女性作家の鉄凝(ティエ・ニン)、ノーベル賞作家の高行健(ガオ・シンジェン)などの翻訳を手がける。2011年、中国新聞出版総署より、中国語書籍の翻訳分野で功績のあった外国人に贈られる中華図書特殊貢献賞を日本人では初めて受賞した。

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中央大学文学部・研究室にて

Q.翻訳の仕事を始めたいきさつ

東京都立大学に入学した当初は、漠然と文学を学びたいというだけで、どこの国とも決めておらず、2年生で専攻を選ぶときに、あえてマイナーな分野を選択しました。都立大が伝統的に中国文学の研究が盛んなところだったことも影響しています。大学と大学院で中国現代文学の魅力ある作品に触れ、それらの多くがまだ日本で翻訳紹介されていないことを知って、その方面の仕事をやりたいと思うようになりました。

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Q.「翻訳」という営為の魅力はなにか

翻訳によって文学作品は国境と言葉の壁を越えます。その橋渡し役ができるのは大きな喜びです。また、自分が作家になって小説を書いているような気分を味わうこともできます。

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Q.翻訳家を目指す人へのアドバイス

翻訳者にとって、最終的に重要なのは母国語の表現力だと思います。たとえば、「~は」を使うか「~が」を使うか、人称代名詞を「俺」にするか「僕」にするかで、ニュアンスはまったく違ってしまいます。そうした言語感覚を鍛えるためには、日ごろからより多くの美しい文章に触れることが大切です。原作が第一の創作とすると、翻訳は第二の創作であり、文学として成り立つ言語にしなければなりません。さらに中国語翻訳固有の問題として、漢字に引きずられてしまう難しさがあります。元の漢字が日本語でも通じてしまうため、つい原語をそのまま使いがちになるのです。なるべく漢語表現を避け、和語にするよう心掛ける必要があります。この映画の中でロシア人のスヴェトラーナさんは、ドイツ人の知り合いにタイプで口述筆記してもらったり音読してもらったりしていました。おそらくあれは、彼女の母国語がドイツ語ではないからというより、第三者の意見を聞くためにやっていたのだと思います。他人に読んでもらって、訳文について客観的な感想を聞くことはとても重要です。

Q.現在、進めている翻訳または著作

中国で2013年に出版された余華の新作『第七天』を翻訳中です。

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飯塚 容さんから『ドストエフスキーと愛に生きる』に寄せられたコメント
彼女は、すべての権力と鋭く対立したドストエフスキーの精神を受け継ぎ、現代の政治家たちが「人道や安全のためだとして犯罪行為を正当化する」ことを強く批判する。一方、彼女は日常において、翻訳と直接関係のない豊かな時間を過ごしている。私たちは、この厳しさと余裕を見習いたい。




映画『ドストエフスキーと愛に生きる』
2014年2月22日(土)よりシネマート六本木、渋谷アップリンク他
全国順次公開

84歳の翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの横には、華奢な姿に不似合いな重厚な装丁の本が積まれている。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『白痴』──言わずと知れたロシア文学の巨匠・ドストエフスキーの長編作品。それらを"五頭の象"と呼び、生涯をかけてドイツ語に訳した。1923年ウクライナ・キエフで生まれ、スターリン政権下で少女時代を過ごし、ナチス占領下でドイツ軍の通訳として激動の時代を生き抜いた彼女の横顔には、戦争の記憶が深い皺となって刻まれている。一人の女性が歩んだ数奇な半生に寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みを描き出す。

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■監督:ヴァディム・イェンドレイコ
■撮影:ニールス・ボルブリンカー、ステファン・クティー
■録音:パトリック・ベッカー
■編集:ギーゼラ・カストロナリ・イェンシュ
■出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット
■製作:ミラ・フィルム
■配給・宣伝:アップリンク
(2009年/スイス=ドイツ/93分/ドイツ語・ロシア語/カラー・モノクロ)

映画公式サイト:http://www.uplink.co.jp/dostoevskii/
映画公式ツイッター:https://twitter.com/DostoevskiiJP
映画公式facebook:https://www.facebook.com/DostoevskiiMovieJP


▼2014年2月22日(土)公開『ドストエフスキーと愛に生きる』予告編





連載:映画『ドストエフスキーと愛に生きる』連動企画

・ヴァディム・イェンドレイコ監督インタビューがお読みいただけます。
http://www.webdice.jp/dice/detail/4095/

・言語をほどき紡ぎなおす者たち───海外文学界の第一線で活躍する翻訳家9名の仕事場を訪ねて vol.1 <柴田元幸/きむふな/野崎歓>はこちら!
http://www.webdice.jp/dice/detail/4096/




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