2017-04-10

『牯嶺街少年殺人事件』 このエントリーを含むはてなブックマーク 

先日、25年前に見逃した『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』をようやく見に行ってきたが、
最初に武蔵野映画館に出向いた時には、前売り券を持っているにもかかわらず満席で入れない状況。
しかし、ネットから席を予約するには、購入と同時でなければならず、
やむなく、その場で予約できる一番遠い日に当たる翌々日の座席を窓口で確保して出直したというしだい
(翌日、また新宿に出てくる気はしなかったので)。

そして、そこまでして見るかいのあった映画だったかというと、
確かに1960年代初頭の台北のいまだ田舎びた風景の下、
むだなサウンドトラックはいっさい使わず、
木々はあくまでも緑な半面、夜の闇はどこまでも漆黒で、
光と影に彩られたすばらしい映画だったんだが、
やたら閉塞感に満ちていて、残念ながら今の自分にはあまりぴんと来なかった
(閉塞感に満ちたものを描くのが悪いというのではない。ただ、現在の自分がそれほどそういったものに同調できないというだけ)。
ああ、やはり25年前に見たかった!
もちろん、その時はなぜ見たかったのかというと、少年が少女を殺してしまう、という物語に魅かれたからだが。

しかしこの映画はそれが最大の見どころでも、一番肝心な題材なわけでもない。
むろん、99%の観客はその結末を知って見に来ているから、
どうしたらそうなるのか、とつい筋を追いながら見てしまうところもあるけれど、
筋よりも、全体的な情景、時代の空気、スクリーン丸ごとが見どころなので、
それがクライマックスだと思っていると、なにかとてもあっけない感じにもさせられる。

それにしても、この男どもをふり回す少女、小明(シャオミン)はいったいなんなのか?
制服姿でしか出てこないのにいわゆる魔性の女? まだ、十四歳なんでしょう?
おそらく、ろくに頼れる人もいない身の上から、本能的に男どもの庇護を受けようとするのだろうが、
その時点で女は男の所有物となり、男に奪い合われるだけのものでしかなくなる。
愛情と欲望を一身に集められる反面、たやすく憎悪を向けられる標的ともなるもの。
自分が危うい橋を渡っていることも知らずに自我を主張するから最後にはこのようなことに、とも言えるのだが、
小明に対して、同性としてなんの不快感も感じず、むしろいい声をしているとすら思ったものの、
女というものが物語の中でそのような主体性の許されないものの象徴としてしか描かれ得ないことに、
この作品に限らず、物語というものに対する一抹のじれったさのようなものを感じた。
いや、美学的にはもちろんこれでいいし、正統な話の運びだとも思うのですけど。

この映画の登場人物たちが抱えている閉塞感や、行き詰まり感は、
国も時代も違えど、おそらく今の日本の若い人たちにも共感できることではあろうが、
その捕らわれの籠は、ある約束事の上では確かに揺るぎない現実であっても、
いったんそこを脱け出してしまえば単なる幻でしかないということ
(この物語の中の不良少年たちの不毛な縄張り争いのように)、
そして、その籠を破る力は、おそらくはほんとうは、
「この世界は僕が照らしてみせる」
というような、映画のキャッチコピーともなった少年の言葉が示す、若者に特有のエゴに満ちたがむしゃらなパワーではないのだろうということも、
この映画からどことなく感じ取れれば、
青春のきらめきと挫折を追体験する以上に、なお味わいがあるのではないだろうか。

キーワード:

牯嶺街少年殺人事件


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Reiko.A/東 玲子

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