2010-09-12

メディアに載らない誰かにおもいを馳せる クロスレビュー『忘却 Oblivion』監督 エディ・ホニグマン このエントリーを含むはてなブックマーク 

信号が赤になり車が停車した。
横断歩道をステージにして、二人の幼い姉妹が
アクロバティックなパフォーマンスを披露しはじめた。
そのシーンで、ハッとして目を開いた。

それは彼女らの生活費を得るためのパフォーマンスであるのだが、
彼女らは着飾っても、化粧をしているわけでもなく。
生活のために見せる術を習得している。
彼女らのパフォーマンスの根っこが「生きる」と直結している、
心がざわざわとした。

監督は、「『忘却』で出会う人々は生まれながらの詩人だ」という。
なんて素敵な発想だろう。
その監督のおもいは、映像にあらわれている。
詩人のかれらは、過去や、現在、未来を語り、
言葉以外のもので生きる様を物語る。

映画の舞台で監督の故郷でもあるペルーの首都リマについてこう語る。
「殆ど誰にも気づかれない都市であり、数世紀の間支配者に騙され、
無視され続けてきた住民たちに対しても思いが寄せられることはまずない」
また、都市のそこかしこに「恐怖は偏在しているのに、
この国のことは決して「ホット・ニュース」にはならない」
[地図を表示]

試写会の9月11日、何の日だったかなぁと・・忘れてはいけない、
2001年、アメリカ同時多発テロ事件の起こった日だ。

映画の中で、リマの革修理屋のおじさんは、
テロが起こるのと選挙どちらが迷惑か、という問いに
選挙の方が迷惑だと答える。
それだけ独裁政治のために困難な生活を強いられてきたことが理解できる。
どれほどの苦労があったのだろうか、しかし、おじさんは最後に言う。
「自分のことを誇りに思う。」と。

出会う人、ひとりひとり、それぞれの詩をつくりあげている。

詩人たちに思いを馳せる。
だれがボードレールか、中原中也か、、、なんてふうに、
地球の反対側の彼らに寄り添ってみてはどうでしょうか。

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NAGASHIMA

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