2010-10-23

『スプリング・フィーバー』クロスレビュー:誰もが好んで浮世を漂っているワケじゃない… このエントリーを含むはてなブックマーク 


男と男とか、女と男とか、もしくは映画にはないけど女と女とか、そんなことはこの際ハッキリいって関係ない。中国で映画製作を禁じられているロウ・イエ監督が、この最新作『スプリング・フィーバー』で愛に揺れる5人の登場人物を通して描くのは、“心”なんていう愛がなければ充たされないひどく厄介なものを胸に携え生きているボクら人間のそれはもう業としか言いようのない普遍的な哀しみだ。だからこの映画は、観た人すべての心を優しくしめつけてくるのだ。

でも、誰もが愛とひとクチに言うけれど果たして愛とはなんだろう? 映画に出てくる5人の男女は1人として本当の愛とは何かもわからないまま、ただ自分の居場所を見失い孤独や喪失感を抱えながら心にポッカリと空いた穴を塞ぐための何かを相手に欲して悶えているだけのように見える。愛とは何かなんてけっきょく誰にもわからない。だけどワケもわからず人は人を好きになってしまうから心はいつも苦しいし、その苦しさに耐えられない者は時に過ちを犯し世に悲劇は起こり続ける。

監督が映画製作を禁じられたのは前作『天安門、恋人たち』で天安門事件を扱い直接的な性愛表現を描いたからだけど、「禁止? 知るかボケッ」と言わんばかりの飽くなき作家精神によるゲリラ撮影の映像は途轍もない映画的強度を保ちながら、しかしどこまでも繊細に人物1人1人の心の機微を彫り下げ、どんなに内容がセンセーショナルであってもそこに下品さが微塵もないのは、監督の題材に対する真摯さゆえと、なにより彼自身が自分の居場所を求めて必死に今を生きているからだろう。

しかし本作、というよりロウ・イエ映画にいつも漂う甘くて切ない感傷は、心という厄介なものを持ってしまったゆえの人間の“特権”であるようにもボクは思う。映画のモチーフになったのは郁達夫(ユイ・ダーフ)という作家の短篇小説「春風沈水の夜」だけど、個人的にはドラマの終盤、主人公ジャンがタトゥーを入れて帰る場面に流れる、宋代の歌妓が書いた「好きで浮き世を漂うにあらず すべて宿命に似たり 花の命もさだめのままに」という詩に一番グッときてしまった。

粘り強かった夏もついに過ぎ去っていよいよ吹く風の冷やかさに人肌が恋しくなってくる季節……。もちろん誰かと一緒に観てもいいけど、できれば仕事帰りとかに独りで観て、鑑賞後、春風…じゃなく秋風に身を沈め酔い痴れながら映画の余韻ととともに人の孤独をかみしめたいそんな1本。自分はどうして上手に生きられないのだろう…? 日々そんな風に思いながらそれでもなんとなく生きている、『スプリング・フィーバー』は、そんなボクや、アナタのための映画だ。

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栗本 東樹

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栗本 東樹

“浮世離れた坊主でも木魚の割れ目で想い出す”


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