2010-11-21

ハーバーマス的解釈 開示>呈示コミュニケーション このエントリーを含むはてなブックマーク 

 共同体で生活するあらゆる人物を悩ます形而上学的問いこそ「コミュニケーションとは
なにか?」という問いであると思われる。この問いに絶対的な答えはない。ただし巷で
使われている「コミュニケーション」とはそこまでご立派なものと言えるのであろうか?

このことが私をこの世に生を受けてから現在に至るまで悩まし続けてきた疑問なのである。
さまざまな社会的組織には暗黙のルールが存在しており、そのルールに従うか否かが
社会的生活を送るためには重要となってくるはずである。たとえばそれが家庭であり
学校であり会社であり宗教であり駅であり図書館でありチェーン店であるかもしれない。

そして成員はこの店に行く際に必要最低限のスキーマ(認識的枠組み)やスクリプト(
順序枠組み)を認識しているのである。それが親の規範であり上司や部下の規範であり
教祖や信者の規範であり駅員の規範であり司書の規範でありアルバイト店員や店長の規範
なのである。ところがこの規範をお互いが知りつくしているとしたら表面的な会話は
成立するが開示的なコミュニケーションは成立しないのである。よってこの会話を
繰り返すことで得られるものは戦略的な認識枠と八方美人的に振る舞うペルソナである。
日本に住む生物は周囲に同調することばかり考えるあまりシステムの奴隷になってしまった。
それは良く言えば勤勉で平和主義者であるが悪く言えば思考を完全に停止した保守派である。
よって誰もが自己開示コミュニケーションを合理的に使わなくなってしまい
自己呈示能力と同調圧力に屈服する弱者が適応性がある人間であると認識されるのである。

しかしこれでよいとは私は思えない。ハーバーマスの「コミュニケーション的合理性」のように自分自身の目的や欲求を相手に対してきちんと開示し受ける人間も自分自身の目的や欲求をきちんと主張する。その対話によって差異を認めあい交渉していく行為こそコミュニケーションと呼ぶに相応しいのではないか?

結論としては組織の構造に同一化する演技をする自己呈示人間(空気の読める人間)と
八方美人(表面だけは格好がいい、美しい人間)を日本から追い出し自己開示性が強く
協調性のある人間(目的と欲求をきちんと主張し相手の尊厳を認めあう人、つまりバカ正直であって心の広い人)を社会に多く送りだしていくことが重要なのだと考える。

自己呈示人間を減らし自己開示人間を増やす(コミュニケーション合理性のとれる人間)
そのために採用側の自己呈示人間を破滅させ開示人間へと変化させる努力も必要なのだ。

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アレゴリー立気

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アレゴリー立気

“とくにないです。”


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