2010-11-23

マルクス的価値論 物神化の魔力! このエントリーを含むはてなブックマーク 

 「マルクス主義」とは資本主義の疎外(雇用者が資本家の提起したシステムに支配されシステムの奴隷と化す)によって唯物論的(観念より物を重視する思想)な弁証法(従来のシステムと反発するシステムがシステムを妥協し合うことで次のシステムを産出していく過程)が起こると考えそれを反復することで社会主義が到来するであろうと推測した一連の理屈である。マルクスは資本主義における価値観を「交換的価値」と「使用的価値」に分けた。資本家に隷従した奴隷たちは物に記号(ブランド/有用性)を付けて「交換的価値」の付加価値を高めそれを搾取される側に立つ消費者たちに買わせることで経済が成立すると考えたのである。それに対して「使用的価値」とは個人によっての価値であり時代のニーズには必ずしも合わないため売り物にはならない。よって資本主義的に「使用的価値」は需要がないと判断されるのである。ここまでは「マルクス主義」的な資本主義経済の流れを説明したいすぎない、ここからが本題だ、

そこで資本主義社会に生きている消費型人間は「交換的価値」を高めることしか考えなく
なった。「交換的価値」を高めることが社会的幸福であると思いこんだからである。そこで搾取者たちは「交換的価値」が高くなければ不幸であり幸せにはなれない。努力して「交換的価値」を手にいれて幸せになりなさいと強迫的なメッセージをあらゆる情報機関を通じてコンシューマーに伝達した。そこで消費者たち(主に唯物主義的な金持ち=ブランド志向の人間・唯物主義的な貧乏=トリクルダウン現象によって唯物的同一化を強いられる貧乏人)は他者よりも多くのブランドを所持し消費することで自分の地位をアピールし他者を見下すことで優越感に浸るという物神化(フェティシズム)の魔力にかかってしまったのである。その結果物神化を手に入れた唯物主義的な金持ち(学歴/収入/容姿/異性/家庭/高級車/ブランド品)は自分たちが物神化の魔力にかかっているとも知らず優越感に浸り世の中を知った感覚に陥り他者を見下す。また唯物主義的な貧乏も物神化された対象を手に入れなかったことを嘆き金持ちに恨みを持ち始めたのである。さらに貧乏な弱者たちこそ世の中が理解できていると主張しルサンチマンと化し傷の舐め合いを始めたのである。(非リア充>リア充の構図)

だが何が違うのだろうか?唯物論的には確かに前者は富を築きあげ後者は築きあげなかった。
しかし観念論的に見れば同じではないか。学歴を手にいれるために学校に行き、新卒で大手
企業に就職するためだけに大学に入り、高給を手にいれるためだけの仕事をしている。異性に好かれるためもしくは親や友人に認められるためだけに勉強やスポーツや芸術に没頭し家庭を持つことでペルソナを演じ幸せに気取り他者を見下す。車や鞄や靴が好きなわけではなくベンツやシャネルという記号が好きな観念論的な貧乏人なのだ。観念論者から見れば唯物的な金持ちも貧乏も大差はない!記号という情報に踊らされ他者の欲望の同一化により行動をする低能なのだ。彼らは信念や思想など一ミリも存在しないにもかかわらず信念や思想がある演技をする自己欺瞞人間でありかつ保守的で愚かな業突く張り人間なのである!

では私が望むべき金持ちとは何であろうか?それは唯物主義ではなく観念主義である。
観念主義に至っては実家が金持ちだろうが貧乏だろうがあまり関係はない。
いかに物を持つかではなくいかに特定の物を断続して愛し続けるかなのだ。
そして努力する必要もない。この生活に安住し続ければいい。ニーチェの望む「永遠回帰」を受け入ればいいのだ。金持ちは金持ち。貧乏は貧乏。貧乏人が背伸びして頑張ることほど愚かなことはない。かといって観念論的金持ちは観念論的な貧乏を見下さないし観念論的な貧乏は観念的金持ちに怨恨を持つ必要はない。背丈にあった生活をし続けていけばいいのである。
お互いがお互いの生活の差異を認め合う心こそ観念論的金持ちなのだっ!

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アレゴリー立気

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アレゴリー立気

“とくにないです。”


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