2010-11-24

アドルノ的解釈 非同一性からの同一性芸術否定アプローチ このエントリーを含むはてなブックマーク 

 さきほどの日記で価値概念を2つの概念に選別した。一つは「交換的価値」でありもう一つは「使用的価値」である。「芸術とはなにか?」を考えたときまず「交換的価値」は排除されると言っていい。「交換的価値」は儲けることに重点を置くわけだから儲かればいいわけである。流行に合わせたファッションや娯楽は当然該当されるが俗に言うサブカルチャーという抑圧を売り物にしている文化や「芸術」を売り物にしている専門学校や大学も私から言わせれば「交換的価値」に該当している。また渋谷系やアキバ系や原宿系といった一連の記号もまた俗物文化の象徴であり記号を同一化した大衆が集まる一連の集落地帯でしかないのである。一言で言ってしまえばモノマネや模範が成立する文化は芸術ではない。情報に操作された記号の囚人たちの馴れ合い場でしかない。記号を手段として利用する畜群の集まりなのだ。

そうしてあらゆる同一性を排除し否定したとき何も残らないわけである。なぜなら残っている概念は類型化されたジャンルに識別されるからである。逆説的に考えればジャンルに識別されない何かが芸術と言うことになるだろう。ジャンルであってはならない=芸術なのである。

では芸術家に適した人物とはどういう人たちであろうか?一概に答えはないだろう。だが先ほども述べた通り同一性に固執しないのが芸術であるならば固執できない人間が向いているのだ。つまりあらゆるジャンルに帰属する手段がなくする意志さえもなくあらゆる情報統制を受けておらず社会的に完全に不適応で不適応であることも自覚できない人間こそ相応しいと私は考える。経済的な問題もあるので裕福で一生お金に困らない一族の息子や娘もしくはパトロンによって一生を保証された人間に創作する権限があると私は思う。サラリーマンやフリーターでは金銭的に余裕がなく賃金の差はあるとはいえある程度の社会適応能力があるため向かない。また前提的に疎外され道徳や理性を保ちながら生きているため昇華活動や願望充足投射や同一化が働きやすいと言ってもいい。ようは間接的なガス抜き手段と化すのだ。

まとめてみよう。まず芸術作品の創作者は作品の意図を全く把握する必要はない。自分でもよくわからないからこその芸術である。次にあらゆる昇華活動は社会からの逃避であって芸術ではない。直接的に主張できない弱者が間接的に置き換えたものが昇華だからである。そしてさきほども述べたようにあらゆる同一化を排除したものが芸術である。自分の理想化された人物や作品があるとすればその人は芸術家には向かない。知る必要性がないし恐らく知らない。また大金持ちが創造するべきである。また統合失調者などのビジョンのズレが生じている人であってもいいのではないか。逆に貧乏人や文化圏に順応した健常者や願望充足投射や自己顕示欲を露にするような人々は向かないのではないかと思う。彼らにとって芸術とは都合のよいストレス発散場でありガス抜きでしかないからである。

芸術家は「創造の病」でそれしかできないのだ。そこから抜け出すこともできない。
そして行為そのものに付加価値はない。芸術行為は目的であり手段ではないのだ。

キーワード:

芸術 / 非同一性 / 同一性


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アレゴリー立気

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“とくにないです。”


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