2010-11-24

ソクラテス的解釈 無知の肯定 真理の否定 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 ソクラテスはギリシャの哲学者であったとされる人物で実在したかどうかは不明だが「世界史」の教科書にもでてくるため著名な人物であったと言える。ソクラテスは生前本をまったく書かなかったため弟子のプラトンの本の中での登場人物として初めて認識されたのである。ソクラテスは形而上学的病に犯されておりあらゆる出来事を疑ってかかったが理解しようとはしなかった。ようするにソクラテスにとって答えをだすことより問題提議をすることのほうが重要であったのではないだろうか?そして問題提議に答えがないことをソクラテスは知っていたかもしれないのだ。それが俗に言う「無知の知」という概念である。狭義では「何かを知ったと思いこんでいる人より知らないことを知っている人こそ賢い」という意味である。ようするに考えてもわからない問いは考えてもわかりえないかもしれない。しかし考えることそのものはパスカルの言うところの「考える葦」である。考えることは無機物である山や海にはできないしアリやネコやワニにではできない。彼らの存在は「〜である」と規定されるが人間は考えることで「〜である」になりえない特殊な生命体なのである。考える事しか能がない生き物だからこそ答えがないとわかっていても考え続けることを強いられる、あらゆる形而上学的問いは人間を死に追いつめる罰ゲームでありまた生を維持し続けることを強いる罰ゲームである。

ソクラテスの「無知の知」とは考えてもわかりえないという事実を提起しているが他の人物はどうであろうか?たとえばウィトゲンシュタインは形而上学を完全に否定している。答えどころか質問さえも存在しないという彼の理屈はおおむね正しい。「人間とは何か?」という問いは答えもないが質問提起さえ間違っている、質問そのものが成立しえないものなのである。そして先ほども述べたようにそれは人間でしか考えられない問いである。犬が「犬とは何か?」と考えるだろうか?「ペディグリーチャムミキサー(餌)とは何か?」と考えるのであろうか?むしろ考えないからこそ真っ当な犬として存在しえるのである。つまり考える行為を持たない対象こそ始めて「〜である。」と言えるのである。

まだ形而下学はわかりえるかもしれない。なぜなら査定ができるように最初から作ってあるからである。たとえば「1+1=2」は形而下学的問いだが「なぜ1+1+=2なのか?」という問いは形而上学である。前者がわかるのはわかるように作ってあるからであり後者は質問提起がそもそも間違っているため答えがでるとは思えないのだ。だが人間は形而上学的な答えを見出したくて仕方がない欲求にかられた出来損ないの生物である。出来損ないの生き物はどこかに真理があると錯覚している。それがたとえば国の思想であったりカルチャー思想であったり宗教思想であったり特定の人物思想であったりするかもしれない。だがそれらの対象にいくらすがっても答えは見出せないだろう。それらは一つの考え方や生き方を提供してくれるだけにすぎない。人間は生まれてから死ぬまで永遠に自分のことも他者のことも世界のことも宇宙のことも知り得ない、ただ一つのアプローチで世界を見ているにすぎない。過去と現在を比べて成長したと錯覚するにすぎないのだ。

形而下学的な問い(算数/国語/理科/社会/英語)を反復してわかることは各々の問題の解き方である。(スキーマ)反復することで問題は解けることができる。また自転車や自動車の運転も訓練し続けることにより身体が運転技法を覚えてしまうのだろう。(領域固有の知能/身体実存性)しかしこれらの行為を何度反復しようとも形而上学的問いはわからない。問いなどだせるわけがないのだ。そして形而上学的な問いに真理などは一つも存在しない。科学や宗教はそのことから目を背け理解したフリをしている疑似思想に他ならない。自らが何も知りえないことを受け入れろ!そこからどう生きていくかが大事なのであり真理があると思いこむ事こそ真理ではないのだっ!

あらゆる真理を疑い無知になれ! あらゆる真理にすがらない超人になるのだ!

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アレゴリー立気

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アレゴリー立気

“とくにないです。”


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