2010-11-28

手段としての表象 目的としての表象 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 私はあらゆる「表象文化」が表現そのものを表象するのではなく手段としての表象になっているかのような気がするのである。今までは表現者が表現そのものを表象すると考えていたが近年それが怪しくなってきたのである。大袈裟に言ってしまえば全てのカルチャーはプロパガンダの安売りであり大衆の願望充足投射に利用されている手段(昇華)でしかないように思われる。たとえば大衆はペルソナ思考な「表象文化」を好む。知的な自分像であったり格好が良い自分像をあらゆる表現媒体(純愛/友愛/愛国心/英雄)に投射することで自らを合理化させるためである。また表現者に同一化することで自分自身の思想は正しいと思い込むことを可能とさせるのである。

大衆文化に馴染むことができなかったマイノリティは抑圧思考な表象文化を好む。異性に相手にされず抑圧された衝動性を解放する術がなく不条理な労働環境に犯されているため文化圏のタブーを好む。そのため願望充足投射を抑圧解放装置に転換させると考える。(性/暴力/タブー)抑圧的思考型人間もまた表現者と同一化しカタルシス効果を得ることで自らを合理化する。ペルソナ思考型人間は純愛や友情や時代や偉人を美化し合理化させることで自分自身は真っ当な人間であると思いこみ抑圧型思考人間はセックスや暴力やタブーを美化しペルソナ思考型人間を俗流であると非難する。そして抑圧型思考人間こそが真っ当であると主張するかもしれない。

これがあらゆるカルチャーに浸透することで全てのカルチャーは死んだのだ。彼らや彼女らはカルチャーを心から愛している人間たちではない。手段として利用して現実世界を立ち回っているだけの合理化人間なのである。ペルソナ型思考人間は「ハリウッド映画」や「時代劇」や「ジブリ映画」に逃避することで自らを正義であると思い込む。正義が悪を倒すという馬鹿げた発想を信じ続けているし、地球環境について何も考えたこともない人間が環境問題について考えたフリをし続けているのである。もしくは正義のヒーローやヒロインという幻想に同一化することで恍惚感を手にすることができるだろう。抑圧型思考人間はサブカルチャーというジャンルに逃避することで「セックス行為」や「暴力行為」を間接的に利用し投射している。ペルソナ型人間は保守的で知的で格好がいいもしくは綺麗な自分自身を演じるために「表象文化」を利用し抑圧型思考人間は直接的な性や攻撃衝動ができないゆえに「表象文化」にすがっているだけの人間たちなのではないだろうか。それゆえ歌が好きだとか漫画が好きだとか映画が好きだとかダンスが好きだという言動だけでは信用することはできない。直接的に主張ができない人々があらゆる表現媒体を手段として利用することで逃避し続けている腰抜け連中である可能性が濃厚であると思われる。つまり昇華活動である。

ペルソナ型思考人間や抑圧型思考人間こそジャンルを腐敗させた原因である。彼らや彼女らは
あらゆるジャンルに逃避するだけではなくジャンルを肯定するフリをし続けてきたのである。
手段として表現媒体(音楽/漫画/映画/ダンス/演劇/アート/コメディ)を利用し続けてきた罪は重いのではないだろうか?

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アレゴリー立気

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アレゴリー立気

“とくにないです。”


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