2009-11-29

炎の写真家、偉大なる空回り ― 『日暮里ガイドブック』を読む このエントリーを含むはてなブックマーク 

 写真家ニッポリーニ(1963年日暮里生まれ)の生み出した作品『日暮里ガイドブック』からは、男女が喧嘩しているというイメージがまず目にとびこんでくる。勝敗は圧倒的に男の敗北である。男は蹴られ、殴られ、地面にかがみこむ。ひと昔まえの韓国の映画のような、強い彼女というイメージが場所をかえ至る所で展開されていくのは、単純明快な図式として、鑑賞者に提示されていく。それが演じられた芝居だということは、連作を通して眺めることでもすぐにうかがえるが、そこには状況をシリアスに感じさせないという作家の配慮があるのではないだろうか。むしろ自然に想像される、勝気な女と駄目男といった物語の展開からは、人情味のある、ほのぼのとした雰囲気さえ感じられるだろう。
 その軽妙さを支える様々な遊びが、デジタル写真には施されている。フイルムの傷、現像ムラ、スポッティングといった銀塩写真における失敗、してはいけない過ちが、過剰に再現されているのだ。これらはアナログ時代を通過した写真家ならではの、過ぎ去りし時代への手向けとなっているのだろう。
 一方、同時に展示された銀塩写真は、近年発展したプリント技法によって、階調豊かで鋭利な作品に仕上がっている。同じく日暮里の片隅で撮影されたそれらは、高層マンションの商業区画であったり、駅前広場の外周であったりするのだが、どこか空虚で、センチメンタルな味わいがある。それは男女の姿にもあらわれている。喧嘩の芝居もやがては終わり、ふたりは余白に消えていくのだろうか。写真家はそんな切なさを、再開発されていく町並みにのせていく。
 しかしこれは『日暮里ガイドブック』なのである。作家は人物が配置された「風景」写真として、この作品を撮影しているのかもしれない。谷中の商店街、路地、舎人線のホーム下などを舞台にしながら、ニッポリーニは故郷に愛憎いり混じったまなざしを向けながら、シャッターを切っているのだろうか。または、冷静な視線でファインダーをのぞく作家は無表情なのだろうか。
 『日暮里ガイドブック』を読みすすめると、そこに写された人物の気持ちをとらえた絶妙な表情、細部に細かく、ときに大雑把なプリント表現が、はたして作家の意中にどのように存在するのか、謎めいてくる。作品の心臓は、物語の核心はどこにあるのだろうか。
私は作家の後輩という人物に出会い、解決のヒントを得た。いわく、「彼(ニッポリーニ)はゴッホだ」というのだ。
 ニッポリーニの性癖ともいえる、ディテールへの偏愛が、サービス精神旺盛な信条とクロスオーバーした結果、かれの写真は、写真表現の根本的な追求、写真としての質の高さと美しさを競う本来の写真道から、大きく外れた場所にきてしまっているのではないだろうか。記憶の風景と架空の世界、いまここにある現実を、かれは一度に提示してみせる。その濃密な空間をレンズ越しにのぞきながら、写真家はゴッホの筆致を追うように、いまだ姿の見えない真実を求めさまよい続けているのかもしれない。
 ニッポリーニの写真は笑顔を与えてくれるし、感傷的な気分にもさせてくれる。こうした人生の泣き笑いは、日暮里に生まれ育った作家の足跡に重なるのだろうか。考えが難しくなってしまったが、ニッポリーニの作品が「親切な写真」であることに間違いはない。写真家の思いは、私のはるか及ばないところにあるのかもしれないが、モノクロームの画面には鑑賞者を楽しませる仕掛けや情報が詰め込まれ、飽きさせない。『日暮里ガイドブック』には、単純には片付かない、不可解な親密さがある。ここに正体が隠されているのではないだろうか。
 そう、写真家ゴッホは、自身の生みだした作品を理解ができず、きょうも恐れおののいているのかもしれない。作品にかける情熱の空回りが、遠心力をもって回転するとき、その中心には濃密な気配に満たされた、美しい空洞が生まれるのだ。
 これこそ、本来の写真術という奇跡なのではないだろうか。

日暮里ガイドブック
2009年12月19日(土曜日)まで
12:00から19:00
月曜日・火曜日休廊

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