2009-02-08

去年の秋のコンサートいろいろ このエントリーを含むはてなブックマーク 

「macbookの乱」のせいばかりではないんだけど、秋以降に聴いたコンサート、書きたいと思いながら怠けていた分を、さらっといきます。

このブログでも紹介した、クレール・メラニーちゃんの新作初演コンサート。
11月2日に横浜公演、11月29日に京都公演がありました。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのトリオの作品で、" In between ” sur les pas de sanemori (実盛の歩みについて)。プログラムや曲目解説はこっちを見てください。
http://quartiersmusicaux.blog77.fc2.com/blog-entry-66.html

実盛とは斎藤実盛。誰やねんって感じですけど、平家の武将で、その最期は能にも歌舞伎にもなっています。(どんな話かは、上記リンクからのリンク参照)。メラニーは、能の『実盛』からインスピレーションを得て、この〈in between〉を作曲しました。これが不思議な作品で、ほとんど楽音がない。擦弦楽器3ケも使って、弓で弦をこする音がない。というか冒頭、ほとんど音が聞こえない。「シャーッ、シャーッ…」(音を字面で表現するなら2ptぐらいね)というような幽けき音が続く。弓で楽器の胴をこすってる。ありゃま。それから、ヴィオラが、琵琶法師のように、弦を指でつまびいたりする。でも音程はないような音。まあそんな感じで、弓で弦を叩いたり、またシャーッだったり…。

最初の「シャーッ」は、橋懸かりを歩いてくる能役者の摺り足のイメージだそうな。日本の作曲家が、能を題材にした曲をつくるとして、摺り足の音を再現しようとはしないだろうな。でも、あからさまな「能の再現」でもない。勝手な想像をすると、能を見て聴いてメラニーはすっごく驚いて、そこから音の作品に向っていった時に、様式としての「橋懸かりを歩くシテの摺り足」が、どうしても必要だったんだろう。そういう、ある種の抽象化と再構築を、オモシロイと思った。

初演の横浜は、横浜トリエンナーレのフランスデーのイベントで、ひっっじょーに会場のコンディションが悪く、彼女の作品の幽かな音より、PA機器のモータだかファンだかの音のほうがでかいような状態で、かなりがっくりきていました。その後、作品にさらに手をいれて、京都のヴィラ九条山でのコンサートでは新ヴァージョンを披露。両公演とも、メラニーの曲の他に、P.デュサパンの『オイメ』と、I.クセナキスの『フネム・イデュヘイ』も演奏されました。クセナキスのこの曲は、全編ビブラートを全くかけないヴァイオリンとチェロの「ピャーッ」とした音で、結構好きです。管楽器みたく聞こえる。そして、コンサート終了後、横浜赤レンガ倉庫の前の広場の全国物産屋台(?)の雑踏の中で、『フネム・イデュヘイ』がいつまでも聞こえていたのはなぜだろう? ビブラートをかけない弦楽器の音に似た何かが、絶対に鳴っていた、気がする。

んでもって、メラニーの摺り足に敬意を表して、京都で彼女を足袋屋さんに連れていき、足袋をプレゼントしました。プリティーな柄物じゃなくてやっぱり白!と選んだあとで、「汚れるからやっぱり黒にする」と交換したので、この写真は幻の白足袋。写真のタイトルは、〈sur les pieds de melanie〉ですう。

あとはねー。10月25日の、野平一郎さんのリサイタルat文化会館小ホール。
プログラムはメシアンへのオマージュとして構成されていて、メシアンの弟子のデュフールとミュライユの作品の間に、演奏される機会の少ないメシアンの曲、真ん中に野平さんの曲、さらにその真ん中に休憩がはさまって、きれいにシンメトリカルなサンドイッチ構成。

■ユグ・デュフール:魔王(2006 日本初演)
■オリヴィエ・メシアン:音価と強度のモード(1949)
■野平一郎:6つの間奏曲(1992-2008 第1-3曲改訂初演 第4-6曲世界初演)
■オリヴィエ・メシアン:ヌーム・リトミック(1949)
■トリスタン・ミュライユ:仕事と日々(2002 日本初演)

これがなんだか、感心しちゃったのよ、プログラムの構成にも演奏にも。ワタシの能力の限界を超えているのでうまく説明できませんが。とくにメシアンの「音価と強度のモード」。かのウィレムくんが昨年6月に弾いたシュトックハウゼン『ピアノ曲第7番』について、私の敬愛するピアニストにして作曲家のニーガキサンが、「彼(シュトックハウゼン)もまたメシアンから--特に『音価と強度のモード』という作品から--学んだ」(カルチエ・デテのレポートより)と書いてくれていたので、すっげー聴いてみたかった曲だったのだ。プログラムの解説によれば、「この楽曲は音高のモード(36音からなる)、音価のモード(24の持続からなる)、アタックのモード(12のアタック)、強度のモード(7つのニュアンス)を使用する。…」などと書かれていて、そりゃもう読んでも聴いてもチンプンカンプン。単旋聖歌のネウマ譜の旋律曲線をリズムにおきかえた云々という「ヌーム・リトミック」もやっぱりワカランチンで、たぶん残りの人生を全てメシアンを聴くことにつぎ込んでもわかんないままなんだろうけど、そこはかとなく「つぎ込む価値はあるかもしれない」という気分にさせられた(そうやってワタシはまた人生を棒に振る)。まあそういう具合に、そのあとに続く作曲家、作品を配置しながら、音楽史の中でのメシアンの位置と意義のパースペクティヴを、野平さん的に示してくれたコンサートでした。

12月21日に、芸大の千住キャンパスで行なわれた、「松平敬・太田真紀 現代声楽曲コンサート」。バリトンとソプラノのこの二人は、2006年の現音のレクチャーでの、現代音楽の声の作品へのアプローチの話と演奏がすこぶる面白くて興味を持ったのですが、このコンサートでも、シェルシ、ベリオ、ケージ、松平頼則、湯浅譲二などなどの作品を聴かせてくれました。ほんというと、声の作品、特に合唱とかって、人間の声という身近過ぎる音を、なんとなく気持ち悪く感じることがあって、朗々と歌い上げない現代音楽の声楽作品のほうが私としては面白い。器楽のように声を使う、でも、明らかに声は人間の身体性と分かちがたく、聴こえてくる音のオドロキと歌い手の悪戦苦闘ぶりが楽しい…というような、ちょっと悪趣味な聴き方ですけれど。

そして2008年、ワタシの音楽世界を塗り替えた(もうひとりの)ピアニスト、にして作曲家の(前出)ニーガキサン、改め・新垣隆さん。あまりにファンになってしまって、恥ずかしくて中々書けない。秋以降も、随分と彼のコンサートなどに通い詰めましたが、もったいなくて書けない(なんやそれ?)。実はこのブログの秘められた三大コンセプトのひとつが、「ニーガキサンをウヒヒと笑わせる」なんですが、ニーガキサンはPCをお使いではないので、読んでいただけない。ので時々プリントアウトして、無理やり押し付けている。いつか書きます、ニーガキサン、待っててね。

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